ローマの信徒への手紙を読む(第177回)

177 平和に生きる(5)

 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。
「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」
と書いてあります。
「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。
そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」
悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。

(ローマの信徒への手紙12章19〜21節)

 パウロは、復讐は神のなさることである、それゆえ神に場所を空けよと語る。なぜなら彼は人間の正義の不完全さ、不確かさということを知り抜いていたからである。しかし、それだけではない。パウロがこのように言い得た最大の根拠は、神の審判を信じる信仰であった。
 神は天地の造り主であられ、この世界とすべての被造物を支配しておられる唯一の主であられる。そして神は昔も今も、世の終わりに至るまで、この世界のいっさいをみ手のうちに握り、みこころのままに統べ治めておられる。この神の摂理のみ手の、今働く働きに信頼するときに、わたしたちはいかなるときにも、すべてをゆだねて生きることができる。
 同時に、神は義なるお方である。神は必ずまったきさばきをなし、この世にあってご自身の義を貫きとおされる。今わたしたちの目に映っているのは不条理な現実かもしれないとしても、わたしたちは失望も、落胆もしない。なぜなら摂理の神は今このときにもこの世界の現実のただ中にみ手を伸ばしておられるからである。

 わたしたちのひとりひとりに、自分で復讐せず、神の怒りに任せよとのみ言葉を守り行わせるのは、最終的には再臨の主を待ち望む信仰である。再臨の主の審判を知るからこそ、わたしたちはさばきを神にゆだねる。
 では、復讐を神のみ手にゆだねるとするなら、わたしたちは何をなすべきか。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」(20)
 人のなすべきは、敵に善をはからうこと、敵を愛することである。「燃える炭火を彼の頭に積むことになる」はユニークな表現だが、箴言25章22節にこの言葉がある。燃える炭火とは神の怒りの火と言うよりも、神のみ前で人が恥じ入るさまを言ったものであろう。神の愛は人を恥じ入らせ、悔改めに導く。かつてはキリストの敵であり、教会の迫害者であった、しかし今はキリストの無限の赦しと愛にあずかり、新しい人とされたパウロ自身が、やはりそのことを知り抜いていたはずである。
 敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませる。それは決して悪を容認し、悪と妥協し、悪に屈伏する弱者の道ではない。反対にそれこそが善をもって悪にうちかつ、真に勇気ある勝利者の道である。わたしたちの主はこの道をわたしたちに先立って歩みとおされた。わたしたちもこの道を行くのである。主の弟子として主に従うのである。

 主イエスの弟子たちは、この世の力と向き合うにさいしては、力をもってしない。剣を取ることをしない。剣を取る者は剣によって滅びるからである。剣は悪の連鎖を際限もなく生み出し続けるだけだからである。
 主イエスの弟子たちは、この悪の連鎖を断ち切って、善の連鎖を始めなければならない。すでに見たように、聖書において善とはただ道徳的によいということではなく、神のみこころにかなうということである。そして神はわたしたちに復讐を禁じる。敵を愛すること、敵に飲ませ、食べさせることを求めたもう。それがみこころにかなうことだと仰せになる。
 なぜなら、愛の力こそがこの世に神の国をもたらすからである。まことの平和を実現するからである。主イエスの十字架の愛は、人のどのような罪をも贖う力を持つ。愛は悪しき者をも新しい人につくりかえる力を持つ。わたしたちはキリストにあって、愛が必ず勝利を収めることを知っているのである。
 イエス・キリストとの出会いは人格的な出会いである。キリストを知るとはたんに知識、教養として知るということではなく、キリストを生きるということである。わたしたちのうちにキリストのみ霊が住まわれるということである。そうであれば、キリストを知ることによってわたしたちは必ず変えられる。善をもって悪に勝つ新しい人に変えられるのである。だからこそパウロは、あなたがたもそのような者であれとすべてのキリストの弟子たちに命じるのである。

(2010.8.18 祈祷会)