ローマの信徒への手紙を読む(第18回)

18      神の恵みにより(2)

 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。(3:23,24)

 24節の「贖い」とは、本来奴隷が自由の身となるために支払われるべき身代金、
代価のことである。
奴隷が
自由になるためには、代価が支払われねばならない。
それが、なすべきことがなされるということである。

 ところで「贖い」ということのひとつの意味は、
奴隷が自力で積み立てた資産を主人に支払うということであ
る。
そうすれば、彼は自由の身となれる。

しかしこれまで見てきたように、すべての人はユダヤ人と異邦人の別なく、
始祖アダムにあって生まれながら
に罪人、罪の奴隷である。
それゆえに、自力によって自分を贖い、自由とすることはできない。
義を積み上げる
ことが代価を支払うということであり、
義人となることが釈放の条件である。
が、生まれつき不義なる者が義人
となることなど不可能である。
それゆえ、人は死ぬまで罪の奴隷であり続けるほかはない。
それこそが、聖書の
語る人が罪人であるということの意味である。
そして、罪の支払う報酬は死である(6:23)。
わたしたちは、
この生まれながらの罪と死のさだめから、
どのようにして救われ得るのだろうか。

 まことに感謝すべきことに、神はわたしたちを罪と死の束縛からときはなつために、
み子イエス・キリストを
遣わし、このお方をわたしたちのための贖いとなしてくださった。
このお方はわたしたちとことなって、まったく罪のないお方であった。
その生涯において完全なる義を貫き通
された。
そのようなお方が、十字架につけられて死なれた。
十字架は罪の刑罰である。
その場所で、罪人はおの
が罪の正当な代価を支払う。
つまり死ぬ。
死は罪の刑罰である。
もし人が十字架につけられて死ぬということが
あるとすれば、
それは彼が自分の犯した罪の代価を支払ったということにすぎない。
彼の死はしたがって、人類
の救いにも彼自身の救いにもならない。
しかし、罪なきお方が、そうであるにもかかわらず罪の報酬を支払いたもうた。
義人が、そうであるにもかか
わらず不義の刑罰を受けたもうた。
なぜそのようなことが起こったのか。
すなわち、このお方はわたしたちの代
わりとして、あの十字架の上で尊き血潮を流されたのだ。

 神の子キリストはわたしたち罪人のひとりとなられ、わたしたちの罪の現実のただ中に入って来られた。
そし
てわたしたちの死を代わってその身に引き受け、死なれた。
これが贖いである。
キリストの死は、わたしたちの
罪の代価である。
ほんとうは、神に対して代価を支払うべきはわたしたち自身であった。
しかし、神がわたした
ちのために、
おんみずから愛するひとり子を十字架に死なせたもうた。
みずからこの尊き代価を支払ってくださ
った。
ひとり子を死なせるほどに、わたしたちを愛してくださった。
神のこの愛ゆえに、わたしたちは罪と死の
牢獄から釈放され、
自由の身となったのである。
永遠に自由の身なのである。
神はみ子の義をあたかもわたした
ち自身の義であるかのように、無償でわたしたちに着せてくださった。
わたしたちを義人としてくださった。
れゆえにわたしたちは、もはや罪の報酬を支払って死ななくともよいのである。
これがキリスト・イエスの福音
である。

 命とは何か。罪とは何か。救いとは何か。
この世にはさまざまな教えを説く人々があり、さまざまな救いの道
が語られている。
しかしわたしたちは、救いの道をこの世の言葉や知恵によっては知ることはできない。
この世
のどのような知恵者も、みずからを救うことはできない。
天来の言葉に教えられることによってのみ、
わたした
ちは真の救いについて知ることができる。
まことの神を知り、神の言葉である聖書に聞くことによって、
人は罪
から救われるための道筋をはっきりと見出すことを得るのである。

 神がみ子イエス・キリストを通してわたしたちのためになしとげてくださったこと。
そのことによってわたし
たちは救いを受けた。
キリストの、十字架の贖いによってただ恵みにより、無償で義とされる道こそ、
すべての
人間にとっての救いの一本道なのである。
そして、この恵みの道を通っていくことによってのみ、
わたしたちは
神の栄光を受ける。
罪ゆえに神の栄光をこの身をもってあらわすことのできなかった者が、
ふたたび神の栄光の
ために生きる者とされるのである。
                        (2007.1.24 祈祷会)