ローマの信徒への手紙を読む(第2回)

2 使徒

 キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、
召されて使徒となったパウロから(1:1)

パウロは自分のことを「僕」と呼び、続けて「使徒」とも呼んでいる。

使徒。
キリスト・イエスの使いとして派遣された者。
キリストの全権大使。
キリストの口となって語り、キリストの手足としてふるまう者。

 ここにおいて、使徒は奴隷でもあることに想到する。
奴隷は主人の手足となって働く。
主人の命ずるがままになす。
奴隷は主人に忠実に仕える。
ただしキリスト・イエスの奴隷であるとき、そこにこの上ない喜びと自由がともなう。
ここで、使徒と奴隷とはかさなりあう。 

  使徒が使徒とされることは、みずから求めてのことではない。
人から勧められてのことでも、この世から要求されてのことでもない。
「神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロ」。
すなわち使徒は神に選び出され、召し出されて使徒とされる。
人が使徒とされるのは、神によることなのだ。

 そうであるとすれば、それはあらゆる人間の意志や計画にはるかに先立つ、あるいはこれをはるかに超越する、永遠の次元における神のみわざである。
パウロもこの神の永遠のみこころによって使徒とされた。
人の思いをはるかにこえる全能の神の、不思議なみわざが彼をキリスト・イエスの働き人として立てたのだ。

 それは本当である。
かつてのパウロを考えるなら、彼がキリスト・イエスの使者、福音の宣教者とされることなど、想像することもできなかった。

 なぜなら、彼はかつてはキリスト・イエスを真理の敵として憎み、
キリストの教会を迫害する者だった。
キリスト者たちを捕らえては獄に送り込んでいた者だった。

 その彼を、ダマスコ途上で復活のキリストはとらえたもうた。
彼の回心はまさに彼自身の力や経験をこえた、神のみ手の介入によることである。
それは彼の存在そのものがすべてひっくるめて神にとらえられ、神のものとされ、
神に敵対していた人間がきびすを返して神の道を歩き始める−そういう出来事だった。
このような人間の根本的な転換は、実に神によって引き起こされる。

 彼はキリスト・イエスに出会う以前から「選ばれた者」であった。
ユダヤ教ファリサイ派のエリートであった。
この世と彼自身が、彼をこの上なく正しい、立派な、信仰深い人間として任じていた。
その彼がキリスト者となって、かつてのファリサイ人であったときの自分を思い返しながら、わたしはなんとみじめな人間だろうかと嘆くのだ(7:24)。
しかも同時に、キリストの救いにあずかったことを感謝しつつ。

人がほんとうに選ばれるというのは、自分で自分を選ぶというのでも、だれかほかの人に、世の中に選んでもらうというのでもない。
神に選ばれることである。神の恵みの選び、永遠の救いの選びにあずかることである。

ほんとうの信仰は、人間の主導権の元では成り立たない。
人間が神の言葉を自分のはかりにかけて判断し、
取捨選択するといった姿勢においては成り立たない。

ほんとうの信仰は、神の主導権のもとでこそなりたつ。
おのが罪と盲目のうちに浸りきっていながらそれに気づかず、
自分ほど正しい人間はないと信じ込んでいたパウロのために、又私達のひとりひとりのために、
すべてのアダムのすえのために、
神はひとり子を十字架につけ、その罪を贖い、その霊の目を開いてくださった。
古き罪の人が神の恵みのみ手にかかり、打ち砕かれ、瞬時にしてキリストにある新しき、幸いなる人につくりかえられる。
それは恵みに満ちた、かつ衝撃的な出来事にちがいない。

 父祖ヤコブはヤボクの渡しで神の人と格闘し、古き自分を打ち砕かれ、神の恵みに生きる者として生まれ変わった。
その新生のしるしは足の関節をはずされたことであった。
「びっこを引く神との格闘者の上に日がのぼるのです。」(
W・リュティ)

パウロもあのダマスコ途上で、天からの光に照らされて地に倒れ伏し、起き上がって目を開けたが何も見えず、三日の間食べも飲みもしなかった(使徒言行録9:1〜9)。
キリスト・イエスの使徒は、そしてすべてのキリスト・イエスの僕は、
このようにして生まれる。
                            (2006.9.20 祈祷会)