ローマの信徒への手紙を読む(第20回)

20      信仰の法則によって(1)

 では、人の誇りはどこにあるのか。
それは取り除かれました。どんな法則によってか。
行いの法則によるのか。
そうではない。
信仰の法則によってです。
(ローマの信徒への手紙3章27節)

 神の言葉は、まさに神の言葉であるがゆえに、
人を究極的な位置に立たせ、人に決定的な決断をうながす。
神の言葉を聞くとき、わたしたちはわたしたちの前にふたつの道が置かれていることを知る。
 ひとつは、人を誇って生きる道である。
「人」を「自分」におきかえたほうが、さらにわかりやすいであろう。
もうひとつは、神を誇って生きる道である。
そして、結局人はそのいずれかの道を行く以外にはないのである。
ちなみに聖書においては「誇る」とは思い上がる、自慢するという意味以前に、土台に据える、よりどころとする、あるいは後ろ盾にするといった意味である。
命を託す、命を預けると言いかえてもよいであろう。
命を託すほどに頼りにする、それが誇るということである。

ここでもパウロは二者択一の、究極の問いを問うている。
パウロの問いの立てかたは行いの法則によって生きるのか、それとも信仰の法則によって生きるのか(27)というものである。
前者は、人が自分の知恵や力や経験を絶対のよりどころとして生きるということであり、後者は神の恵みのみ手に信頼し、いっさいをみ手にゆだねて生きることである。
ふたつの法則は正反対である。
たがいに対立しあう。すなわち、人はいずれかを選ぶほかはないのである。

 パウロはここで、この究極の問いへの答えをすでに出してしまっている。
「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました」(27)。
人が自分を土台とし、自分を頼みとして生きる道は取り除かれた。
そのようにパウロは、おそらくは大きな喜びと感謝に満ち溢れて語るのである。
しかし、わたしたちはこのパウロの言葉にただちに同意することができるだろうか。
わたしたちはこれまで生きてきた人生において、家庭や学校や職場や社会の中で、自分を誇り、自分を土台として生きるべきことを奨励
され続けてきたのではないだろうか。
社会の荒波の中で、信じ、頼ることができるのは自分だけだと教えられることしばしばであったのではないだろうか。

聖書の語るところによく耳をかたむけたい。
人は生まれながらに行いの法則を選び取る。
おのずから自分を土台として生きる傾向を持つ。
それが、これまでのところでパウロが語り示してきたところである。
そしてここにこそ人の罪があらわにされる。
神の選びの民であるユダヤ人もまたそうであった。
彼らは自分たちを最高に誇り高き人間とするために、律法や割礼といった神の恵みのしるしさえも、自己実現と自己満足の道具にかえてしまった。
人はほんらい自分を誇って、すなわち神から離れ、自分を絶対者として生きるべきではない。
造り主なる神を誇って生きるべきである。
神の恵みに生かされて生きるべきである。
それが創造の秩序であり、被造物の唯一の生きかたのはずである。
人間にとって自分を誇る道は滅びに至り、神を誇って生きる道は命に至る。
あれか、これかである。

そのことを踏まえつつ、パウロは言う。
人の誇りは取り除かれた。
今や人はイエス・キリストの十字架の贖いによる罪の赦しと、よみがえりの命の恵みをこそよりどころとし、この神の恵みにいっさいをゆだねて生きる者とされた。
神が人の誇りを取り除けてくださった。
そして人をほんらいの道、まことの命につながる道、イエス・キリストを信じて歩む信仰の道、神を誇って生きる道へと導き返してくださった。

行いの法則に生きていた者が、信仰の法則に生きる者となる。
それは根本的な転換である。
その者は、イエス・キリストのみ霊によって新しく生まれた者である。
新しい命を生き始めた者である。
わたしたちはすでにイエス・キリストの福音を、真理のみ言葉を聞いた。
この上どうして、なお自分を誇ることがあるだろうか。
イエス・キリストというまことの命の土台を知った今、どうして自分自身の経験や能力や知識に、あるいは過ぎ去っていくこの世の知恵に、自分の大切な命を託すことができるだろうか。

わたしたちはもはや自分で自分を支える必要はない。
自分で自分を慰める必要はない。
イエス・キリストが支えてくださる。慰めてくださる。
このお方のもとでいっさいの重荷をおろすことができる。
信仰の法則に生きる者は、この大きな恵みを知っているのである。                (2007.2.7 祈祷会)