ローマの信徒への手紙を読む(第21回)

21           信仰の法則によって(2)

 それでは、わたしたちは信仰によって、
律法を無にするのか。決してそうではない。
むしろ、律法を確立するのです。
(ローマの信徒への手紙3章31節)

3章21節以下で、パウロは信仰義認の教えについて説き明かしていた。
福音の最も深いところにかかわる大
切な真理である。ここはまちがいなく、この手紙全体の中で最も重要な箇所のひとつである。 けれども大切な真理であるからこそ、よけいに微妙であり、誤解を招きやすいということもある。
聖書の真理
を見出すことは、ある場合には鉱脈を深く掘り下げていくような仕事である。宝が、すなわち真理が土の中深くに隠れている。それで、ただ表面をなぞっただけでは誤解が生じるという場合もあり得るのではないだろうか。
それゆえパウロはローマ教会の信徒たちの中にもこの真理をめぐる誤解が起こらないように、あらかじめ先手を
うって注釈をつけているように見える。

 では、パウロが予想した誤解とはどのようなものだったのか。「それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。」
つまり、人はただイエス・キリストを信じる信仰によって義とされるというのなら、もはや律法はいらなくなってしまったということなのか、捨ててしまってもよいということなのか、そういう問いである。これにパウロは明瞭にこたえる。「決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。」
ここで問われているのは、信仰と行いの関係という問題である。両者の関係を正しくわきまえることが、すこやかな信仰の生活を築くうえできわめて重要であることは言うまでもない。
信仰と行いの関係をめぐる誤解については、ふたつの方向を考えることができよう。その一方は、信仰義認の真理を聞きながら、なお人の行いが彼の救いに貢献する余地を残しておきたいという願いとなってあらわれる。

実は信仰義認の真理は、パウロ以後のキリスト教会の歴史においていつも安泰で、しっかりと保持されてきたとは言いがたい。むしろたえず揺るがされてきたと言ったほうがよい。
ことほどさように人はみずからの行いに立
ちたいのである。自分で自分を義としたいという欲求は、それほどまでに根深いのである。
ここでは人は、信仰
も大事だけれども行いも大事だと考える。そして、キリストは信仰によって義としてくださった、恵みによって罪から救ってくださったが、この恵みにこたえるためには今度は自分たちで腕まくりをして、律法に聞き従う正しい人間にならねばならないと考えるのである。
けれどもすでにここでは「信仰のみ」「恵みのみ」がほころび始
めているのではないだろうか。いつしか「律法を確立する」のは人の努力だということにならないだろうか。

 もうひとつの方向は、もはや律法は不要だとの理解となってあらわれる。人が行いによらず、信仰により、恵みによって救われたのだから、キリストを信じた者は今や何をしてもゆるされる、行いは救いには関係がないのだから、どんなことをしてもかまわないのだと考えて、無軌道な、不道徳きわまる生活に走る者たちもあった。

こちらの誤解については「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(ヤコブ2:17)とのみ言葉を思い起こさねばならない。新約の時代にあっても、律法は決してすたれたのではない。それはイエス・キリストを信じて生きるわたしたちにとっても、信仰と生活の規準なのである。先の例を律法主義の根の残存とするなら、こちらは無律法主義と呼ぶべきであろう。いずれも正しい信仰の理解とは言えない。

 信仰と行いの関係を正しく理解するために、わたしたちは31節のふたつめの文の「律法を」の前に、「信仰によって」という言葉を補って読んでみよう。つまり、こうなる。「(わたしたちは)むしろ『信仰によって』律法(を守り行うこと)を確立するのです。」

 信仰により義とされ、恵みによって罪ゆるされたわたしたちは、なお恵みによって生き続ける。すなわち、わたしたちを新しい人となし、わたしたちのうちに住まわってくださるキリストのみ霊のみ力によって、み言葉を守り行うことのできる者にさせていただくのである。聖霊ご自身がわたしたちをつくりかえて、よきわざの実りを豊かに実らせてくださるのである。それゆえわたしたちは今や、このお方−み霊により頼むのであって、自力に頼むのではない。恵みによってわたしたちのうちによきことを始めてくださったお方は、恵みによってこれをなしとげてもくださるのである。
                     (2007.2.14 祈祷会)