ローマの信徒への手紙を読む(第22回)

22      アブラハム(1)

 聖書には何と書いてありますか。
「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」
とあります。
(4:3)

 信仰義認の教えこそ、キリスト教信仰の最大の要点であり、そのことを語り示す3章21節以下がローマの信徒への手紙全体の要であることをすでに確かめた。
   4章1節からは、パウロはこの教えがはるか旧約の時代から一貫して変わることのない真理であることを証明するために、父祖アブラハムの信仰についてふりかえる。
 アブラハムは偉大な名である。旧約時代の神の民イスラエルは、しばしばアブラハムを父と呼んでいる。新約の教会につらなるわたしたちにとっても、アブラハムはやはり信仰の父である。パウロは1節でアブラハムのことを「肉によるわたしたちの先祖」と呼んでいるが、これは神を信じて生きるすべての人間たちの先祖、父ということであろう。パウロはそのアブラハムを指さして、まさしく人は信仰によって義と認められるのだということを、ここで具体的に示そうとするのである。

 アブラハムの信仰について見ていくにあたって、ひとつの背景についてわきまえておきたい。それはこういうことである。今このようにして、パウロその人もアブラハムを信仰の父と呼ぶ。パウロとともに、人は信仰によって義とされると信じるすべての人々にとっても、アブラハムは父である。
 しかし同時に、パウロがこれまでのところでユダヤ人と呼んでいた人々、さらにはファリサイ人や律法学者たち、すなわち人は行いによって義とされると信じる人々にとっても、やはりアブラハムこそ偉大な父であり、ならうべき模範であったのである。つまりある人々はアブラハムを信仰による義の証明としてかかげ、別の人々は彼を行いによる義のモデルとして尊敬していた。こちらの人々にとってはアブラハムとは律法を守り行うことにおいてまさに完璧な、非のうちどころのない人であった。
 
このようにひとりの人についての評価が真っ二つに分かれるということは、この世の歴史においては(神の民の歴史においても)しばしば起こる。そしてパウロはそうした背景が存在していたことを知り抜いていた。その上で、まずこう言うのである。「もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。」(2)

 つまり、アブラハムと言えども神の前ではひとりの人間にすぎないのである。
 歴史上の偉大な人物は、しばしば偶像のような存在にまつり上げられる。政治の世界でも、宗教の世界でも、芸術の世界でも、ひとりの人間がさまざまな伝説にいろどられ、あるいは果てしなく理想化されて英雄となり、偶像となり、崇拝の対象となるということが繰り返し起こってきた。しかし、もし人が後世の人々の手でそのようにされてしまうならば、それは彼自身にとっても不幸なことであろう。
 アブラハムは神の前では自分を誇ることはできないとパウロが言う(2)ときに、パウロにはアブラハムをおとしめようという意図があったわけでは決してない。そうではなく、後の人々が着せた偶像の衣をはがしたのである。神の前に立つひとりの人間に戻したのである。これはきわめて正当な手続きなのである。パウロは先の箇所で語っていた。すべての人間は始祖アダムにあって罪を犯した。義人はいない。ひとりもいない。そうであるなら、アブラハムもまた例外ではない。彼もまた行いによってみずからを義とすることはできない。みずからの義を誇ることはできない。
 さらに言われる。「聖書には何と書いてありますか。『アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた』とあります。」(3)

 創世記15章6節の引用である。すでに旧約聖書の創世記に、アブラハムは信仰によって義と認められたと書いてある。アブラハムを行いによる義の模範として理想化し、偶像化する人々よ、聖書に書いてあることが正しいとすれば、あながたがは聖書の真理を曲解し、まちがったアブラハム像を捏造したことにならないか。あなたがたもまた自分をアブラハムの子と任じているならば、アブラハムが生き抜いた信仰の真理に忠実に立ち戻るべきではないのか。これがパウロの問いである。

                           (2007.2.21 祈祷会)