ローマの信徒への手紙を読む(第23回)

23              アブラハム(2)

 聖書には何と書いてありますか。
「アブラハムは神を信じた。
それが、彼の義と認められた」とあります。
(4:3)

 信仰義認の教えが旧約、新約をつらぬいた不変の真理であることを示すために、パウロはアブラハムの信仰について論じ始めていた。
そこで、信仰とは何かという問題である。
あるいは、人が信仰によって義とされるとはどういうことなのかということである。
3節でパウロも引用している創世記15章5,6節を見たい。
「主は彼を外に連れ出して言われた。『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。』そして言われた。『あなたの子孫はこのようになる。』アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」

神はアブラハムに、彼の子孫を空の星のようにすると約束なさった。
アブラハムは神のこの約束のみ言葉を、そのとおりになると信じた。
そして、神はアブラハムの信仰を義とされた。つまり、この信仰によって彼を救いたもうたのである。

信仰とは何か。
それは、神の約束への無条件の信頼である。
留保をつけずに、神を正しいお方、確かなお方と信じて、従うことである。
このときにはアブラハム自身の側には、何ひとつ希望をつなぐものはなかった。アブラハムも妻のサラもすでに年老いて、ふたりには子どもがなかったのである。
しかしアブラハムはいっさいの自己主張を捨てて、いっさいの条件や弁明を放棄して、自分の身に神の約束がそのとおりに成就すると信じたのである。
そして自分の全存在を神にまかせたのである。
念のために言えば、神への無条件の信頼とは盲信ということとはことなる。根拠もないのにやみくもに信じ込むということではない。
信仰には根拠がある。それは神のみ言葉である。
アブラハムよあなたの子孫を空の星のようにする−このみ言葉にゆだねて生きることが信仰である。
神は人間のそのような信仰を喜び、豊かに祝福してくださるのである。

 創世記を読むとき、アブラハムの生涯がまさしく信仰の生涯であったことがよくわかる。
12章には彼が召命を受け、旅立ったときのいきさつが記されている。
このときに神は彼に、この旅がどこを目指し、どのような道筋をたどり、いつ終わるのかということをいっさい明かされなかった。
ただ「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい」(1)と仰せになっただけである。
加えて彼の故郷には家族があり、長くたずさわってきた仕事もあった。
さらに、彼はすでに75歳という高齢であった。人間的に考えるなら、旅立ちには不利な条件ばかりである。
けれどもアブラハムは旅立った。
それは、そういうむずかしい条件にうちかった彼の勇気がほめたたえられるということなのか。
艱難辛苦をのりこえて目的を果たす人生こそ、英雄にふさわしいということなのか。
そうではない。
ここでも神はまず、彼に約束をお語りになった。
「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。/あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。/地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」(2〜3)
アブラハムはこの約束を信じ、「主の言葉に従って旅立った」(4)のである。
主のみ言葉に従って旅立つ。主なる神に信頼して一歩を踏み出す。そこから、わたしたちのすべての歩みは始まるのである。
信仰によって生きるとは決して抽象的なことではない。生ける神がみ言葉によって、わたしたちの生涯の道をつけてくださるのである。神に従って生きようとするなら、神がわたしたちの生涯に責任を負ってくださるのである。

 22章では、神は約束どおりに彼に与えてくださったひとり子イサクをほふってささげよとお命じになる。このときの彼の苦悩の深さは察するにあまりある。
自分の命を絶たれるような思いを、彼は味わったのではないだろうか。彼には、なぜ神が自分にこのような、まさしく祝福を約束しつつみずからそれを反古にしてしまうような命令をなさったのかがわからなかったであろう。
しかし、このときも彼はみ言葉に従う。
イサクを背負って山道を歩く。神はどのような苦難や試練のときにも最善をなしてくださるお方であることを、神のなしたもうことにはまちがいはないということを、彼はここでも信じたのである。
その信仰によって、彼は「主の山に、備えあり」(22:14)との現実を見たのである。

                                                  (2007.2.28 祈祷会)