ローマの信徒への手紙を読む(第25回)

25      アブラハム(4)

 アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、
割礼の印を受けたのです。
こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、
彼らも義と認められました。
(ローマの信徒への手紙4章11節)

  パウロは今、人は信仰のみによって義とされるという真理が普遍的なものであることを証しするために、信仰の父アブラハムもまた信仰によって義と認められたのだということをあらためて確かめる。しかしユダヤ人たちは、割礼こそが救いのしるしであり、割礼を受けることが義と認められ、救いに入れられる条件だとかたく信じていた。
彼らはパウロがアブラハムについて語る言葉を聞きながら、おだやかではなかったはずである。
そして、おそらくはパウロにこう反論したのである−あなたは信仰こそがすべてであると言う。
しかし、今あなたが引き合いに出しているアブラハムもまた割礼を受けているではないか。
そのことはアブラハムもまた救われるために割礼が必要であったことを意味してはいないか。
もしも彼が信仰のみによって義と認められたのなら、
割礼を受ける必要はなかったはずではないか。

 パウロはこのユダヤ人たちの反論にこたえる。
彼が問題にするのは、アブラハムが信仰によって義とされた時がいつであったかということである。「(アブラハムの信仰は)どのようにして認められたのでしょうか。
割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。
割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。」
10)創世記を見ると、アブラハムが神を信じ、その信仰が義と認められたと記されているのは15章6節であり、このとき彼は86歳であったと言われている。
それに対して神がアブラハムと彼の家の男たちに割礼をお命じになった時のことは17章9節以下に書かれてあって、このとき彼は99歳であった。
時間的には13年ほどのへだたりがあったのである。

もしもこの時間的順序が逆であったなら、割礼こそが救いの条件だということになるであろう。
しかしそうではなかった。割礼を受けたときには、アブラハムはすでに信仰によって義とされていた。
永遠の恵みの契約に招き入れられていたのである。

 パウロは、割礼とはアブラハムが信仰によって義とされた証しとして受けたしるしであると述べる(11)。
このアブラハムにおける信仰と割礼との関係は、新約のキリストの教会におけるみ言葉と洗礼、もしくは聖礼典の関係と似たところがあろう。
つまり旧約における割礼も、新約における聖礼典も、ともにみ言葉によって生み出された信仰を確かにし、堅固にする恵みの賜物なのである。

神はアブラハムに、繰り返し繰り返し契約のみ言葉をお語りになる(創世記15章、17章)。信仰によって義とされるなら、み言葉だけでじゅうぶんであったのではないか。アブラハムはみ言葉を受けただけで、信仰によって、神に従っていく歩みをなし得たのではないか。
しかしそれにもかかわらず、神は彼に割礼をほどこすことをもお命じになった。
なぜであろうか。
これは、神が人間というものがいかに信仰うすい者であるかということを知り抜いておられたということではないだろうか。神はアブラハムの信仰をごらんになり、これをお喜びになって彼を義となさった。
しかし一方で神は彼もまた弱く、罪深く、ときに信仰を失いそうになる人であることを知っておられ、いわば信仰のつっかい棒のようにして、さらにひとつの見ゆるしるしをお与えになったのではないだろうか。

 パウロはさきの2章でも割礼について触れていた。今また割礼の問題を取り上げる。それは割礼を主張するユダヤ人たちの中にある功績主義、自己義認が神の恵みをないがしろにする危険を感じ取っていたからこそであろう。
信仰と割礼の関係をとりちがえてはならない。割礼のあるなしは救いの条件ではない。割礼とはあくまでも、み言葉によって生み出された信仰を強め、守り、確かにする、いわば信仰に仕えるしもべであったのである。
それゆえ、外面的な割礼には意味がない。大切なのは「文字ではなく霊によって心に施された割礼」(2:29)である。
心に刻まれたキリストの割礼こそがわたしたちを生かす。
キリスト・イエスのみ霊によって、キリスト・イエスの復活の命に今わたしたちは結合されている−この信仰こそが、洗礼のしるしを刻まれているわたしたちを生かすのである。  
                         (2007.3.14 祈祷会)