ローマの信徒への手紙を読む(第26回)

26           アブラハム(5)

 従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。
恵みによって、アブラハムのすべての子孫、
つまり、単に律法に頼る者だけでなく、
彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。
彼はわたしたちすべての父です。
(ローマの信徒への手紙4章16節)

  トラック競技のセパレートコースが最初から最後まで決められたコースを走り続けるように、救いの真理ということを考えるときにも、救いの歴史の始めから世の終りの完成にいたるまで、一本道を走り続けなければならないということがある。
パウロはこの箇所でも、救いの道が一本道であることを語り示している。同じように走り始めても、いつしか脇道にそれていってしまうということがある。そして道をそれてしまったなら、終りの日に賞を得ることができない。そういうことがあり得るのである。

では、その一本道とはどのような道か。すでにわたしたちが学び続けているように、イエス・キリストを信じる信仰によって義とされる道である。そして脇道とは、自分を義とし、おのが功績によって救いをかちとろうとする道である
パウロの時代、すでに教会にはこの脇道に入りかかったキリスト者たちがいた。
『イエス・キリストの十字架のみわざだけでは心もとないので、このわたしの善き業も付け加えなければならない』そう考える人々が、とくにユダヤ教からの改宗者の中から出てきた。
彼らは人が救われるためには教会につらなるとともに、割礼を受けることや律法を守り行なうことも必要だと主張した。
パウロ自身もユダヤ教ファリサイ派から回心した人であったが、この人々には真っ向から反対したのである。

  人は神の被造物であり、神とともに生きることが創造の秩序である。律法も、神を愛することと、神が彼に与えてくださった隣人を愛すること、このふたつの愛に生きることによってまっとうされる。
自分を義として生きようと企てる時、人は孤独におちいるのではないだろうか。
そこでの関心はもっぱら自分がどうであるのかということに集中するからである。自分しか見えなくなる。神の言葉に忠実であろうとしつつ、神が見えなくなる。
多くの愛すべき隣人たちのすがたも見えなくなる。あたかも自分ひとりが自分を支え、世界を支えているかのように思い込む。これが脇道にそれたすがたである。そしてこの創造の秩序に反する孤独の中に、人の罪の現実が浮き彫りにされてくるのである。

律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味だとパウロは言う(14)。人は信仰に生きるべきである。造り主に信頼し、ひたすらに造り主の恵みに生かされてあるべきである。おのがわざに頼って生きる道は神の命の約束を反古にしてしまうからである。
さらに、律法は怒りを招くものであるとパウロは言う(15)。律法自身は聖なるもの、正しくよきものである。そして、もしも人が神の前に100パーセント正しいのなら、自分の義によって救いを得たであろう。しかしすべての人は始祖アダムにあって罪におちた。それゆえ律法の役割とは、今や(その正しさをもって)人の罪の現実をあらわにすること以外のことではないのである。

  しかし、パウロは救い主イエス・キリストを指さして言う。キリスト・イエスの義は、罪人を贖い、罪と死の支配からときはなつのにじゅうぶんであった。放蕩し、悔い改めて帰ってきた息子に最上の着物を着せた父のように、父なる神はみ子キリストが十字架上で勝ち取りたもうた義を、無償でわたしたちの義としてくださった。そのようにしてわたしたちをご自分のものとして買い戻してくださった。ご自身とともに生きるものとして回復してくださった。人はキリスト・イエスを信じる信仰によって義とされ、神の恵みによって救いを受ける。
この道こそ救いの一本道である。アブラハムも信仰によって義とされた。そしてアブラハムの子孫も、信仰によって世界を受け継ぎ、信仰によって神の祝福の約束に確実にあずかるのである(16)。
パウロはここで、世の終りの日、救いの歴史の完成の日に実現する神の壮大な計画をも望み見ている。その日には、今は律法に頼っている者たちも救いを受ける。主の十字架を哂い、呪う孤独でかたくなな者たちも十字架の恵みにとらえられ、悔い改めて神のもとにたちかえる(ほかならぬ彼自身が、その証人である)。

こうして、全世界の人々が信仰によって義とされ、アブラハムとともに神の祝福の世継ぎとなる。旧約と新約の時代をつらぬいて、一本の大路が敷かれる。すべてのアブラハムの子孫がこぞってこの道を歩むのである。
                             (2007.3.28 祈祷会)