ローマの信徒への手紙を読む(第27回)
27           アブラハム(6)

 しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、
アブラハムのためだけに記されているのではなく、
私たちのためにも記されているのです。
わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、
わたしたちも義と認められます。
イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、
わたしたちが義とされるために復活させられたのです。
(ローマの信徒への手紙4章23〜25節)

  人は信仰によって義とされるということが、時代をこえて動くことのない真理であることを示すために、パウロは信仰の父アブラハムもまた行いによらず、信仰によって義とされた事実を思い起こすようにと、ローマの信徒たちにうながしていた。
 そしてパウロはこの4章では、アブラハムの復活信仰について語る。それは具体的には、彼と妻サラとの間に子孫を与えるとの神の約束を彼が信じたことだとパウロは言う。アブラハムもサラも、そのときすでに老人であり、その肉体はまさに瀕死のありさまであって、子宝など望むべくもなかった。にもかかわらずアブラハムは神の約束のみ言葉を信じ、受け入れた。これが死者に命を与える信仰、すなわち復活信仰だということである。「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです」(17)
  わたしたちが理解すべきは、アブラハムはこの復活信仰によって義と認められたのだということである。創世記15章6節は、このように言葉をおぎなって読むことができるのである。「アブラムは(復活の)主を信じた。主はそれを(すなわち彼の復活信仰を)彼の義と認められた」
 コリントの信徒たちに宛てた手紙の中でパウロは言う。「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(一コリント15:13、14)
 キリスト教信仰とは、すなわち復活の信仰である。復活を信じるということがなかったとすれば、キリスト教信仰はまったくむなしいのである。信仰義認の真理について考えるとき、わたしたちはそのことを深くわきまえているべきである。
 そして、この復活の信仰においては、あるいは復活の信仰によって義とされるという点では、アブラハムもわたしたちも同じである。アブラハムの神はわたしたちの神でもあられ、アブラハムの信仰はわたしたちの信仰でもある。アブラハムの命を生かした神は、復活し今も生きておられるキリスト・イエスのみ霊によって、今わたしたちをも生かしてくださっているのである。

  「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる」ことなど、人間には不可能である。復活の信仰は、神の全能を信じる信仰である。神は、人間がご自身の上に立ったり、人間理性に見合う範囲でご自身に向き合うということをお許しにはならない。
  そしてパウロはこれまでのところで、人間が神の位置に立つような宗教を厳しくしりぞけてきたのではなかっただろうか。つまりそのような宗教こそ、律法を自力で守り行うことによって義とされるとの教えであった。ユダヤ人の、ファリサイ人や律法学者たちの教えであった。この自己義認の教えをなぜパウロはしりぞけたのだろうか。信仰義認の真理にまっこうから対立するからである。
  人はいくら力を尽くして功績を積もうとも、律法の規定を注意深く守り抜こうとも、死者に命を与えることはできない。無から有を呼び起こすこともできない。人のよき行いは、死をうちやぶることはできない。みずからの罪を贖うことはできない。まさにこれこそ「人間にできることではないが、神にはできる」(マルコ10:27)ことなのである。
  わたしたちはよく読み取りたい。この手紙は、1〜4章がひとつの段落である。そして4章は、1〜3章で論じられてきたことのまとめである。1〜3章ではまず人の罪の現実が語られ、そして信仰義認の真理が提示された。そしてその真理の具体的な証明として、ここでアブラハムの信仰が引かれたのである。
  つまりパウロはアブラハムの復活信仰を論じることによって、行いによる義という誤った教えを木っ端微塵にしようとしているのである。この教えが木っ端微塵に打ち砕かれるときに、はじめて人は真理を知り、自由を得ることができるのである。                                         (2007.4.11 祈祷会)