ローマの信徒への手紙を読む(第28回)

28              アブラハム(7)

 しかし、
「それが彼の義と認められた」という言葉は、
アブラハムのためだけに記されているのではなく、
わたしたちのためにも記されているのです。
わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、
わたしたちも義と認められます。
イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、
わたしたちが義とされるために復活させられたのです。
(ローマの信徒への手紙4章23〜25節)

  前回見たように、この手紙の4章はアブラハムの復活信仰を、彼と妻サラとの間に子宝が与えられるとの約束を信じたことを引きつつ語っていた。一方ヘブライ人への手紙11章17節以下は、アブラハムがひとり子イサクをささげたことに、彼の復活信仰を見ている。「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です」(11:17〜19)

  復活信仰とは、死者に命を与え、無から有を呼び起こす神を信じる信仰である。ということは、それは死の中ではじめていきいきと働く信仰であり、無一物になってはじめて圧倒的な力をもって、信じる者を支える信仰であるとも言えよう。
   わたしたちはこの世にあって、さまざまなものにより頼んでいる。地位や富、家庭や職場、健康といったものである。これらはもちろん神からの恵みの賜物である。ところで、わたしたちは自分の持ち物を、中でもいちばん大切なものを神にささげることができるだろうか。
   アブラハムにとってイサクは、彼のすべてと言ってよいほどに大切な息子であった。しかし彼は、神がそうお命じになったというその一点で、愛するイサクをささげようとした。そして、これこそがこのとき神が彼にほどこしたもうた信仰のテストだったのである。

復活信仰は、わたしたちがおのおのの大切なものにしがみついているうちはわからないのである。それらのものを偶像としてあがめているうちはわからないのである。ヨブは神の試練にあってすべてを失ったとき、わたしは裸で母の胎を出た、また裸でかしこにかえろうと語った。
   裸になって、無一物になってはじめて神と正面から対峙し得るということがあろう。そしてそこでこそ神のみ顔がはっきりと見え、救いとは何かということが根本的に理解されるということもあろう。救いは、罪と死の闇からの解放である。キリスト・イエスをわたしたちの罪のためにほふり、死から復活させたもうたことによって、神はこの救いをわたしたちに賜った。この事実こそ、何をおいてもこの身に刻み込んでおかねばならないことである。
    裸になって神と向き合って、信仰とは神がこのわたしの罪と死の体をも贖い、永遠の命に復活させたもう神の力により頼むことであるという事実を身をもってさし示したアブラハムは、わたしたちの信仰の父である。

アブラハムはイサクを返していただいた。イサクの命を奪うことは、はじめから神のみこころではなかったのである。この命令は、あくまでもアブラハムの信仰を試すテストであった。アブラハムはこの試練をくぐりぬけることによって、その復活信仰をいよいよ練りきよめられたのである。神の前に裸で立つことのできる自立した人間として、彼は自分自身を立たせることができたのである。そして返されたイサクからも彼は自由であり、自分の息子をまさしく神からの賜物として受け取りなおすことができたはずである。
    わたしたちも同じではないだろうか。ひとりの人間として神のみ前に立ち、死者に命を与え、無から有を呼び起こすお方を信じる信仰において揺るぎなきときにこそ、そしてこの世に属するさまざまなものを(わたしたちの命も含めて)いつでも神にささげる用意があるところでこそ、はじめて神に対しても、隣人に対しても自由であることができるのである。

                       (2007.4.18 祈祷会)