ローマの信徒への手紙を読む(第29回)

29           アブラハム(8)

 彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、
「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、
多くの民の父となりました。
(ローマの信徒への手紙4章18節)

  アブラハムの信仰について今一度取り上げたい。4章18節には、アブラハムが希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて信じたと言われる。そしてそれは、具体的には妻サラとの間に子孫を与えるとの神の約束にかかわることであった。「そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした」(19)
  子宝を授かりたいと願って全国各地の神社やお寺に願かけをする人は少なくない。そして、願いがかなって子宝を授かるということが起こったとすれば、その神仏は霊験あらたかということになるのであろう。
   しかしここでのアブラハムの場合は、人間が神の能力を試しているのではない。ここで試されているのはアブラハム自身の信仰である。神が、ご自分の全能を信じる彼の信仰を試しておられるのである。

  よく理解をしたいのだが、ここでもまた、人間のふたつの道が鋭く問われている。そのひとつの道は自分を信じ、自分に頼り、自分を義とする道である。神なき道である。そしてもうひとつの道は神を信じ、神に従う信仰によって義とされる道である。もちろんアブラハムは、そしてこの手紙の著者パウロもあとの道に生きたのである。わたしたちもこの道に生きるのである。
   神からイサクの誕生の約束を告げられたとき、アブラハムにはまさしく希望はなかった。この約束を後押ししてくれるような人間的、この世的裏づけは何ひとつとしてなかった。アブラハムもサラもすでにその肉体は衰え、死に瀕していたと言ってよいのである。
   しかしアブラハムは、望みなきときに望みを抱いた。これは、神の約束にいっさいを賭けたということである。わたしに子孫を与えると仰せになったのは神である。死者を生き返らせ、無から有を呼び起こすことのおできになる神である。このお方のみ言葉にはまちがいはない。そう信じて、神の約束を受け入れたのである。自然の条件が何も備わっていなかったのに、全能の神に信頼したのである。
    信仰とは神のみ言葉を、何の留保も条件もつけずに受け入れ、従うことである。神にも聞くけれども人間的な条件もほしい、この世的な裏づけもほしい、そう思ってしまうのがわたしたちの常である。けれどもそのようにふたまたをかけてしまうなら、それはまことの信仰とは言えないものとなるのではないだろうか。

  信仰とは何か。それは転換−人間の根本的な転換であると言えよう。死から復活されたキリスト・イエスを信じる信仰は、人間に根本的な転換をもたらす。世の人々が希望を失ってしまっているときに、信仰者がなお希望をもって生きることができるのは、この転換のゆえである。
    神を知らず、自分を義として歩むときには、わたしたちにとって目に見えるこの世のありようこそが現実である。そして目に見えるものを唯一の、また最後のよりどころとして生きるとき、わたしたちは自分を義とするほかはない。自分の見るもの、自分の判断、自分の価値観こそが正しいとし、これに頼って生きるほかはない。
    けれどもアブラハムは、そしてパウロも、自分の見るところよりも神の言葉を信じることのほうが大切だと考えていた。この世のありようではなく、神との交わりに生きることこそが、彼らにとって現実そのものであったのである。
    信仰など絵空事である、あるいは信仰に生きるとはこの世から逃避することだと言う人がある。しかしそれは誤解である。よく覚えておきたい。人は信仰によってこそ、まことに見るべきものを見ることができるのである。まことの人生の土台を見出すことができるのである。まことに確かな人生の道を歩むことができるのである。わたしたちの人生は天から語られるみ言葉によってこそ意味づけられ、確かにされ、豊かにされるのである。
    信仰とはありてあるお方(出エジプト3:14)、生ける神との交わりである。信仰とは生ける神の愛と恵みを疑わずに生きることである。わたしたちを愛し、わたしたちの人生を祝福し、守り支えてくださる神の誠実に、わたしたちもまた誠実をもってこたえることである。アブラハムは人間的な望みのなきときに、この神の愛と真実のみ言葉に信頼し、その信仰によって義とされた。この信仰において、アブラハムはまさにわたしたちの父なのである。                                (2007.5.2 祈祷会)