ローマの信徒への手紙を読む(第3回)

3、「御 子(みこ)」
キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、
召されて使徒となったパウロから
(ローマ信徒への手紙1章:1節)

この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、
御子に関するものです。(1:2〜3)

 福音とはよき知らせ、喜びの知らせである。
そして福音は「神の福音」(1:1)である。
人のものでも、人から生じたものでもない。
神から出たもの、神のものである。

神こそが福音の創始者であられ、所有者であられる。
パウロはそれを「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったこと」
(コリント第一の手紙2章:9節)と呼ぶ。

 ただ、福音はすでに旧約聖書の時代から準備され、
預言者たちによって約束されていた。
新約の使徒パウロは、ここでみずからを
旧約の預言者たちにつらなる者として位置づける。

 旧約の時代、準備の時代にはあくまでも約束にとどまっていた福音は、
キリスト・イエスの到来によって実現し、成就した。救いの時が満ちたのだ。

「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、
また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、
御子によって私たちに語られました。」(ヘブライ1:1〜2
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 福音は御子によって実現したゆえに、
パウロは福音を「御子に関するもの」(1:3)と呼ぶ。

 御子とはどのようなお方であるのか。

「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、
死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。
この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。」(1:3〜4)

 このパウロの言葉から、わたしたちはヨハネによる福音書1章14節をも思い起こす。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」

 神が人となられた。
この知らせを深い驚きなしに聞き得る者がひとりでもあるだろうか。
わたしたちはクリスマスのたびにこの知らせを聞きなおす。
クリスマスとは、それゆえにまず何よりも驚きの知らせである。
さらには、生まれながらの人間にとってはつまずきを呼び起こす知らせでもあるだろう。

 けれども神の恵みによってみ言葉の真理に目を開かれた者たちにとっては、
この知らせは喜びのおとずれである。
御子によって、神は人と出会ってくださる。
神が人となられた−この大いなるへりくだりによって、インマヌエルの祝福は成就した。
神はわたしたちの目で見、私たちの耳で聞くことのできるお方となってくださった。
わたしたちが神とともに生きる道が、こうして開かれた。

 御子は肉によればダビデの子孫から生まれたもうたと、
また言は肉となってわたしたちの間に宿られたと言われるとき、
その「肉」とはまことの人間性をさすことをわたしたちは知っている。

そのときに、わたしたちはこれをだれかほかの人の人間性であると考えるべきではない。
まさにこのわたしの肉のことが、ここで言われているのだ。

「イエス・キリストはわれわれの肉をまとった。
したがって、イエス・キリストがいるところには、われわれもいるのである。
われわれがそれを知っているかどうかには関係なく、受肉によってそうなったのである。
イエス・キリストの身に起こることは、われわれの身にも起こることである。
あの飼葉桶の中に横たわっているのは、われわれすべての「哀れな肉と血」であり、
イエス・キリストが服従と苦しみにおいて純化し、聖化したのは、
われわれの「肉」なのである。
そして、イエス・キリストと共に十字架につけられて、死に、
イエス・キリストと共にほうむられたのは、
われわれの「肉」にほかならないのである。」(
D・ボンヘッファー)

 このことを理解するとき、聖書がわかり、御子がわかるであろう。
福音が大いなる喜びの知らせであることも理解されるであろう。
神は御子を私たちと同じ人間として世に遣わし、十字架に死なせ、
復活させたもうことによって、罪と死の法則に支配された私たちの古い肉を葬り去り、
永遠の命の祝福のもとに生きる新しい人間となしてくださった。
驚くべき恵みである。
神の福音は御子イエス・キリストを通して、このようにして私たちにもたらされた。

             (2006.9.27 祈祷会)