ローマの信徒への手紙を読む(第30回)

30           平和

 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、
わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、
このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、
神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
(ローマの信徒への手紙5章1〜2節)

 5章1節に、わたしたちは神との間に平和を得ていると語られている。神との平和こそ、わたしたちの人生の土台であるといえよう。もちろん人と人との間の平和、あるいは世界の平和ということも大切である。しかしわたしたちがすこやかな命と人生を生きるためには、まず何よりも神との平和ということが根本的に大切なのである。
  では、神との平和はどこから来るのか。またどのようにしてもたらされるのか。パウロは「信仰によって義とされたのだから」「わたしたちの主イエス・キリストによって」神との間に平和を得ていると語る。つまり平和は、わたしたちがイエス・キリストを信じる信仰によって義とされた結果としてもたらされたのである。

 わたしたちはかつては神の前に義なる者ではなかった。なぜならわたしたちを支配していた罪が、神との関係を壊していたからである。わたしたちはおのおのの罪によって神に背き、神と敵対していた。いわば神との戦闘状態にあったのである。
  そのように神と対立し、神の聖なる怒りを招いていたときには、当然わたしたちには平和がなく、それゆえに魂の平安もなく、わたしたちはたえず死の恐れに脅かされ続けていた。そのようなわたしたちにまさしく根本的に必要であったのは神との平和、造り主との和解であった。

 そしてそのための助けは天からもたらされた。義なる神は不義なる者とは和解し得ない。和解の条件はわたしたちが義と見なされることであった。そこで、神はひとり子をわたしたちのために十字架につけて、わたしたちの罪を贖ってくださった。わたしたちの罪の価は、罪なきキリストが代わりに支払ってくださった。ご自身の命の代価をもって支払ってくださった。そのようにして神はわたしたちを罪なき者、義なる者としてくださった。生ける神はわたしたちの救いのために、み子をとおしてこのように働いてくださったのである。「神は、わたしのいかなる功績にもよらずただ恵みによって、キリストの完全な償いと義と聖とをわたしに与え、わたしのものとし、あたかもわたしが何一つ罪を犯したことも罪人であったこともなく、キリストがわたしに代わって果たされた服従をすべてわたし自身が成し遂げたかのようにみなしてくださいます。そして、そうなるのはただ、わたしがこのような恩恵を信仰の心で受け入れる時だけなのです」(ハイデルベルク信仰問答59問)

 このようにして、神はただ恵みによってご自分からわたしたちとの関係を修復し、神と人との間の平和を回復してくださった。それゆえにもはやわたしたちは罪の重荷にうめくことはない。死の恐れにおののくこともない。人が本来生きるべきまことの命の喜びの中で生きていくことができる。それゆえパウロは、神がこのようなことをしてくださったので、わたしたちは神との平和を得ている、人の命と人生における最も大切な土台を得ていると喜びの叫びをあげるのである。

パウロはキリストにある者を新しく創造された者と呼んでいる(二コリント5:17)が、神との平和を得ていることこそが新しい人間のしるしである。このしるしは目に見えるしるしではない。その人が神との平和に生きている人かどうかということは、外見によって判断できるようなことではないかもしれない。それはキリストのみ霊によって起こされるところの、いわば霊的な祝福だからである。
  しかし目には見えないが、イエス・キリストを信じる信仰によって義とされ、イエス・キリストとともに罪に死に、義人として復活し、神との和解を得ている人には、確実に変化が起こる。神との正しい関係に置かれるとき、人は必ず新しくされる。

わたしたちが義とされ、平和のうちに生き始めるとき、神がみずからわたしたちにおいてよきことをお始めになるのである。神がわたしたちの味方となられる。神の義がわたしたちの義となる。わたしたちは神に合わせられ、神がわたしたちとともにおられる。わたしたちは神のもの、すなわち聖なる者となる。そしてわたしたちの命は聖なる命としてまっとうされ、完成へと導かれるのである。          (2007.5.9 祈祷会)