ローマの信徒への手紙を読む(第31回)

31      誇り

 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、
わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、
このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、
神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
(ローマの信徒への手紙5章1〜2節)

 わたしたちを信仰によって義としてくださった神は、さらにわたしたちを聖なる、新しい人間につくりかえることによってもご自身の栄光をあらわしたもう。ただこの神のみわざは、わたしたちがこの地上にある間は完成はしない。それは待ち望まれるべきもの、希望に属する事柄である。「(わたしたちは)このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」(2)
   ここで誇りにするとは、土台とするという意味である。つまりキリスト者の地上の歩みは、神の栄光にあずかる希望を土台とする歩みなのだということである。わたしたちがまったき意味でこの神の栄光にあずかるのは、世の終わりにキリストがふたたび来たりたもう、そのときである。そのときにこそわたしたちのうちに始められた神のよきみわざは、よきことのきわみにいたる。それゆえにイエス・キリストの再臨こそ、わたしたちの最大の希望である。
    日本キリスト改革派教会創立60周年記念「終末の希望についての信仰の宣言」は、再臨の日に主の民があずかる祝福についてこのように述べる。「新しい人類であるわたしたちは、永遠の命の完成にあずかります。神は自らわたしたちと共に住み、わたしたちの神となられます。わたしたちは、完全にまた永遠に罪と悲惨から解放され、まったき安息を与えられ、もはや死も悲しみもありません。わたしたちは、体と魂の両方において完全に聖化されます。無数の聖徒たちとみ使いたちとの交わりの中で、父なる神と主イエス・キリストと聖霊を直接見て喜び、まったき知識と愛において永遠に神を礼拝し、考えも及ばない喜びに満たされて神の栄光をほめたたえます。また、わたしたちは世々限りなく神の統治にあずかります」
    その日わたしたちは顔と顔とを合わせて神を仰ぎ見、聖化の完成にあずかる。この地上が新しくされて、神の国が成就する。天と地がひとつに相和し、神と人とがひとつに相和す。これこそ天国の到来である。これこそアブラハムに約束された遺産であり、わたしたちにも約束されている遺産である。ここにこそすべての神の民の希望がある。
     教会とキリスト者はすでにこの地上にあって、この終わりの日の希望を誇りとして、すなわち土台として生きる。信仰の父アブラハムがそうであったように、キリスト者は目に見えるところによっては歩まず、目に見えない神の約束によって、神の栄光のみわざを待ち望む希望に生き抜くのである。
   この希望は失望に終わることはない。終わりの日の完全な祝福を今すでにこの地上で保証するものがある。担保がある。それはわたしたちが今すでに神との平和を得ているという事実である。イエス・キリストを信じる信仰によって神との恵みの交わりに招きいれられ、イエス・キリストの体なる教会につらなって生きているという事実である。

 ところでわたしたちが希望に生きるということは、幻想の中を世捨て人のようにして生きるということではない。それはみ言葉の真理に立ってきわめて冷静に、また的確にこの世の現実をわきまえつつ生きるということでもある。つまりわたしたちは、この世のただ中にあってしばしば激しく悩まねばならないし、深く悲しまねばならない。ときに失意の日々を過ごさねばならない。パウロは彼の手紙の中で、キリスト者たちに繰り返し喜ぶべきことを教えているが、そのとき彼はこの世が悩みと悲しみの場所であることを忘れてしまっているわけではないし、そうした現実に目をつむってしまっているのでもない。彼自身はその生涯において、たえず苦難の中に置かれ続けた人であった。たとえば「喜びの手紙」と呼ばれるフィリピの信徒への手紙は、彼が獄につながれ、死と隣り合わせていたときに執筆された。
   にもかかわらずパウロは自分も喜ぶことができ、教会にも喜ぶべきことを教えることができた。そのことは何を示しているだろうか。神がイエス・キリストをとおしてわたしたちにもたらしてくださった平和は揺らぐことはなく、それゆえに神にある希望も終わりの日にいたるまで揺らぐことはないということである。神との平和という現実がわたしたちの命と存在の最も深いところに根づき、わたしたちを支えているということである。
                         (2007.5.16 祈祷会)