ローマの信徒への手紙を読む(33回)

33       苦難の意味(2)

 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。
わたしたちは知っているのです、
苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
希望はわたしたちを欺くことがありません。
わたしたちに与えられた聖霊によって、
神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
(ローマの信徒への手紙5章3〜5節)

  苦難の問題について引き続き考えたい。わたしたちは、この手紙の著者であるパウロ自身の生涯も、一方では苦難の連続であったことを知っている。しかしわたしたちはパウロの生涯の歩みをとおして、明確にひとつのことを教えられる。それはイエス・キリストを信じる者の歩みにおいては、この世のさまざまな状況に遭遇して苦しめられている、あるいは動揺している状態は決して恥ではないということである。あるいはキリスト者は必ずしも、いつも強い人である必要はないのだということである。自分がささいなことで動揺し、苦しみに負けて叫びをあげる弱い人間であることをもって、自分はキリスト者としての資格に欠けるなどということをよもや思ってみるべきではないということである。

誤解を恐れずに言うなら、苦しむこともひとつの能力であり、資質である。むしろ苦しむことに敏感であるほうが、より深い霊性をそなえているとも言えるのである。何よりもわたしたちは、苦難のただ中でアバ父と呼びかけ、思い煩いのいっさいをゆだねることのできるお方を持っているのである。わたしたちは弱い人間、苦悩する人間であるままに、大胆にみ父に近づき、助けを求めることができる。イエス・キリストの贖いによって神との和解を得ているからである。あなたはもう少し強い人間になってからわたしに近づきなさいなどと神は仰せにならない。もしもそのように言われる方であったとすれば、み子をわたしたちの身代わりとして十字架につけるようなことはなさらなかったはずである。

わたしたちはここでも信仰義認の真理にしっかりと立ちたい。人が信仰のみによって義とされるとはどういうことか。それはわたしたちが罪ある、弱き、価値なき人間であるにもかかわらず、イエス・キリストにあって神の子とされ、価高き人間とされているということである。神に近づく資格のないわたしたちに、神のほうから恵みをもって近づいてくださるということである。
    さて、パウロはキリストにある者にとっては苦難は喜びであり、誇りであると言う。なぜであるのか。この点は次回も続けて考えたいが、今回はひとつのみ言葉に目をとめたい。旧約聖書の詩編119編71節にこのようにある。「卑しめられたのはわたしのためによいことでした/わたしはあなたの掟を学ぶようになりました」

つまり苦難の意味は、苦難によって人が神の前に卑しめられるというところにあるのである。苦難の中でこそ人はおのが無力を知らされる。そして神の前に低くされる。そしてそのことによって、人は神の前にある自己とは何者なのかということをあらためて問わされるのである。

つまり、わたしたちは苦難をとおして神と人間、あるいは自分へのより深い理解と認識へと導かれていくということがあるのである。さらに、苦難をとおして神の愛と恵みにあらためて目を開かれるということがあるのである(あのヨブもそうであったように)。そうであるなら、苦難が喜びであり、誇りである、人生の土台でさえあるということも理解されてくるのではないだろうか。
    このあたりのことについてカルヴァンは述べる−人は救われてなお、自分を神とする高慢から免れていない。したがって神の鞭によって強いられないかぎり、決して神に従順であろうとはしない。われわれの経験の示すところでは、神がわたしたちをやさしく取り扱われるやいなや、われわれはとほうもない高ぶりへと傾いていく。

しかし神が苦難の鞭によってわれわれを打ちたもうとき、われわれは神のみ前に卑しくされ、へりくだり、かたくなな心はやわらかにされ、神に従う者とされる。それは結局人間にとって甘美なことである。それゆえ神はある者を貧困によって、別の者を病によって、さらに別の者を家庭の悩みごとによって、また別の者を困難で重い労働によって低くされるのである。

 苦難が誇りであり、喜びであり、幸いであるとは何と驚くべき言葉であろうか。しかし、イエス・キリストにあってはこれは現実となるのである。苦難がわたしたちをますますイエス・キリストに結びつけ、わたしたちの霊性を練磨し、わたしたちをより思慮深い人間とする。苦難さえもわたしたちの聖化と救いの完成のために用いられる。これは確かなことなのである。                 (2007.5.30 祈祷会)