ローマの信徒への手紙を読む(第34回)

34              苦難の意味(3)

 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。
わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、
練達は希望を生むということを。
希望はわたしたちを欺くことがありません。
わたしたちに与えられた聖霊によって、
神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
(ローマの信徒への手紙5章3〜5節)

 苦難は誇りである。できれば苦難をとおざけたいと、また苦しみのない人生こそ幸福な人生であると考えるのが人の常である。そういうことからすれば、このパウロの言葉は驚きである。世の人々がこの言葉を聞いたなら、耳を疑うであろう。
   しかし、イエス・キリストを信じる信仰にあっては苦難は誇りとなり、喜びとなる。イエス・キリストというお方と結びつくとき、苦難は姿をかえるのである。人生においてマイナスとしか思えなかった苦難が、一転してプラスのものとなるのである。苦難に遭遇したことはわたしにとってよいことであった、幸いであったと言うことができる。キリスト者はみなこのことを、現実の生活の中で知らされていくのである。

 では、苦難がよいことであるとはどういうことであろうか。
   それは、神が苦難さえもわたしたちの救いのためにお用いになる、益としてお用いになるということである。世の人々にとってはわざわいかもしれないが、苦難はキリストにある者たちにとっては救いの完成のためにかけがえのない、なくてはならないものである。神はわたしたちに苦難を与えたもうことによって、わたしたちをいっそうご自身に引き寄せたもうのである。実に苦難をとおして、わたしたちはいよいよ神に近づくのである。

 苦難の意義、あるいは効用ということを正しくわきまえるためには、この地上におけるわたしたちの歩みを神の救いの秩序の全体において理解する必要があろう。つまり、わたしたちは今すでに信仰によって義とされている。イエス・キリストはわたしたちの罪のために十字架に死んでくださった。このキリストの贖いによって、神はわたしたちを罪なき者のごとくに見なし、わたしたちと和解してくださった。それゆえ、すでにわたしたちは神との平和を得ている。
    けれども信仰によって義とされたことをもって、わたしたちの救いの道のりは終わってしまったわけではない。完成したわけではない。救いの道は、完成の日を目指してなお続く。つまりわたしたちのこの卑しい体がイエス・キリストの復活の栄光のみ体に似せられていく、イエス・キリストのみ霊がわたしたちをもキリストのみ姿にあやかる者に造りかえてくださる、そのプロセスは生涯にわたるのである。

 そのことから言えば、わたしたちは今なお中間時を、途上を、時の間を生きている(教会も、ひとりひとりのキリスト者も)。義とされて、しかしなお罪人として、聖化の途上を生きている。み言葉にあずかり、聖餐にあずかりながら、今なお残り続ける罪とたたかい、み言葉に従っていく歩みを重ねていく、それがこの地上でのわたしたちのありようである。
   そして、この聖化の途上を行く歩みにおいて、まさに苦難が意味をもつのである。苦難が救いの完成のために役立つのである。なぜなら苦難はイエス・キリストと結びつくときに、わたしたちがますますキリストに近づいていく手だてとなるからである。

 パウロは3節で、苦難は忍耐を生むと語る。パウロは別の手紙では、キリスト者の地上の歩みをマラソン競技になぞらえている。マラソンである以上、完走しなければ意味はない。途中でリタイアしてしまってははじめから走らなかったのと同じであるし、それまで走り続けてきたことも無駄になってしまうであろう。途中でさまざまな苦しみや試練にあっても、忍耐して走りとおす。そうしてはじめてゴールすることができる。義の栄冠を得ることができる。

 わたしたちがこの地上でどのようにして生き、何をなし、またそのわざがどのように評価されるのか、それも大切なことではある。しかし、ともかく「決められた道を走りとおし、信仰を守り抜」(二テモテ4:7)くことそのものが大きなこと、決定的なことなのである。
   そしてその途上に待ち受けるいくつもの苦難をくぐりぬけていくことによって、確かにわたしたちは信仰的な忍耐力ともいうべきものを養っていくのである。そのようにして神は苦難をも、わたしたちの救いの完成のために用いてくださるのである。                        (2007.6.6 祈祷会)