ローマの信徒への手紙を読む(第35回)

35           苦難の意味(4)

 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(5:3〜5)

 パウロは苦難が忍耐を生むと言い、続けて苦難が練達を生むと言っている。「練達」とは鍛錬することによってその事柄の根本をよく知るという意味の言葉である。「練成」「熟達」とも言いかえることができる。つまり苦難がわたしたちの信仰を鍛え、練り上げるということである。信仰は苦難によって鍛えられ、練り上げられることによって本物として証明されるのである。

 詩編66編10〜12節にこうある。「神よ、あなたは我らを試みられた/銀を火で練るように我らを試された/あなたは我らを網に追い込み/我らの腰に枷をはめ/人が我らを駆り立てることを許された/我らは火の中、水の中を通ったが/あなたは我らを導き出して/豊かな所に置かれた」
   この詩は旧約の詩人が出エジプトのみわざを思い起こしつつうたったものだと言われる。神は荒れ野でイスラエルをさまざまに試みられた。しかし神の鞭に打たれることによって、イスラエルは銀が火で精錬されて精度を高めていくようにしてその信仰を練り上げられたと、そして火のような試練、水のような苦難を通って祝福の地に導かれたとうたわれるのである。

 これと通じることを新約聖書ペトロの手紙一1章6〜7節も語っている。「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが/あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」
   神は苦難の鞭によってわたしたちを神の前に卑しく、低くし、わたしたちを従順な者としてくださるのである。人は苦難をとおしてみずからの弱さと限界を知る。そのことは人が今一度神に向き直り、悔い改めるうえで、とてもたいせつなことなのである。いずれにせよ神がわたしたちの信仰を練り上げ、終わりの日に本物だと証明されることのために苦難をも用いてくださるとすれば、苦難はやはりかけがえのない、価高いものなのである。

  さらにパウロは、苦難は希望を生むと言う。希望とはもちろん終わりの日の、救いの完成の希望である。使徒信条の言葉で言うなら、からだの甦りととこしえの命の希望である。

この希望は失望に終わることはない(5)。わたしたちはこの地上で苦難にあい、試みにあう。しかしわたしたちはこれに打ち負かされることはない。わたしたちは勇敢にたたかい、走るべき道のりを走りおえ、信仰を守りとおす。そしてかの日には義の栄冠をさずけられる。すべての苦難も試練も、そのプロセスにおいて益となり、救いの完成のために用いられる。

なぜそのことを信じることができるのか。それはわたしたちが今すでに終わりの日の希望の担保を受けているからである。頭金を支払われているからである。すなわち今この地上の日々において「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」(5)からである。

イエス・キリストはわたしたちの罪を贖うために十字架に死んでくださった。十字架は神の愛のしるしである。この神の真実な愛こそ、わたしたちを真に生かしている命の力、命の源である。

その神の愛がキリストのみ霊によってわたしたちの心に注がれている。「心」とは人間存在の最も深いところ、あるいは中心ということである。わたしたちの存在の最も深い部分を、神はすでに支配してしまわれた。それが、わたしたちの心に主イエスのみ霊が住んでくださっているということである。

この愛ゆえに、わたしたちは苦難や試練に耐えることができる。苦難のただ中で希望を持つことができる。わたしたちを愛したもう神の愛がいついかなるときにも揺らぐことがないことを知っているからこそ、わたしたちは苦難をも誇ることができるのである。苦難は神の呪いのしるしでもなければ、神がわたしたちを見捨てたもうたしるしでもない。

苦難もまた神の愛のしるしである(ヘブライ人への手紙12章4〜13節)。神はわたしたちをご自分の子としてくださった。だからこそ父が子を鍛えるようにして、わたしたちを苦難によって鍛錬なさるのである。