ローマの信徒への手紙を読む(第37回)

37 神の愛(2)

 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、
キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、
神はわたしたちに対する愛を示されました。
(ローマの信徒への手紙5章8節)

  神の愛とはどのような愛なのだろうか。パウロは7〜8節では、神の愛と人の愛とを比較しつつ語っているように見受けられる。そこでパウロは、ときに人も命がけの愛をあらわすのだということを認めないわけではない。親が命をかけて子を救うこと、この世の大きな仕事に命がけで取り組むこと、人類の将来にかかわるような崇高な使命に命をささげること等の例をわたしたちも知っている。

 しかしこれらは、すべて命をささげるだけの価値を見出し得る場合である。愛する者、自分にとって価値ある者、益ある事柄のためには人は犠牲をいとわないかもしれない。そうすることがむしろ喜びにつながる場合もあろう。けれども人の愛は、結局のところ条件つきの愛ではないだろうか。そしてそこに人の愛の限界もあるのではないか。

 一方神の愛は、実に無条件の愛である。そこに神の愛の偉大さがある。人の愛の持つことのできない、天から注がれる愛の深さ、広さ、高さがある。

 わたしたちがまだ弱かったとき、キリストはわたしたちのために死んでくださった。価値なきわたしたちのために死んでくださった。そればかりか不信心な、神に背を向けた、神に敵対するわたしたちのためにキリストは死んでくださった。すなわちキリストはご自身がそのために死なれる理由を見出すこともできないような者たちのために死なれたのである。生まれながらの罪人であるわたしたちのために尊き血潮を流されたのである。神の愛の底知れぬ深さを、わたしたちはここに見るのである。

 では、神はなぜわたしたち罪人にそのような破格の愛を注ぎたもうたのか。それはわたしたちが新しい人間となること、新しい命を生きることをお望みになったからである。神がひとり子を死なせるほどにわたしたちを愛されたのは、わたしたちの命が滅びにいたることを望まれなかったからであった。み子の犠牲によってわたしたちを永遠の命にいたらせるためであった(ヨハネ3:16)。

  キリストの十字架を人類愛の見本、博愛精神の手本として見る人々もある。しかし、十字架の愛は人間愛とはあきらかにことなる。主イエスの十字架の死はわたしたちを罪の支配からときはなつための死であり、わたしたちを新しく創造するための死であったのである。神の愛は無条件の愛である。そしてこの無条件の愛は、無から有を生み出し、死を命にかえる、そのような力を持つ愛である。この愛に触れて、わたしたちは聖霊によって

 新しい人とされたのである。もはや死もなく、悲しみも嘆きも労苦もない人間、神との平和のもとに置かれ続ける人間とされたのである。だからこそパウロも、またわたしたちのひとりひとりも、呪いの木にかけられたキリストを救い主、わが主わが神と告白し、礼拝せずにはおれないのである。

 神の愛は先立つ愛、無条件の愛、底知れぬ愛である。このような愛は、ほかに見出すことはできない。聖書以外のどこにも見出すことはできない。この愛によって罪人は救われ、命を得る。神に背き、敵対していたわたしたちは、この愛によって心砕かれ、悔い改めへと導かれ、神に従順な者とされ、人間としてのすこやかさを回復させられたのである。

パウロはこの前のところでは苦難の問題について語っていた。わたしたち人間にはさまざまな苦しみや悲しみがある。しかし人間の苦悩や悲しみということを突き詰めて考えてみるなら、人間の根本的な悲しみ、苦しみは愛することのできない悲しみ、愛を喪失してしまった苦しみだと言えるのではないだろうか。自分を愛し受け入れることができない、また隣人を愛し受け入れることができない、だからこそわたしたちは苦しみ、悲しむのではないだろうか。

 そのようなわたしたちを生き返らせてくださるのは神の愛である。愛の神のふところに帰り来ることによって、わたしたちは根本的な苦しみや悲しみからときはなたれるのである。神がまずわたしたちを愛してくださった。わたしたちが弱く、不信心で、罪深い者であったときに、キリストはわたしたちのために死んでくださった。わたしたちはみ言葉を聞き、聖餐にあずかるたびに、この神の愛を確かめるのである。そして神に心からの感謝をささげるのである。                           (2007.6.27 祈祷会)