ローマの信徒への手紙を読む(第38回)

38      和解

 それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、
わたしたちは神を誇りとしています。
今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。
(ローマの信徒への手紙5章11節)

 今回は9〜11節を見たい。ここを素朴に読んでみるとき、まず目を引くのは「和解」という言葉が繰り返し三度出てくることである。もちろんここでの和解とは、神と人との和解である。そして、それは神の一方的な恵みによってもたらされた。人の側には、神と和解する力はいささかもなかった。それは「キリストの血によって」(9)「み子の死によって」(10)「キリストを通して」(11)もたらされたのである。

 そのように和解が神からの一方的な贈り物であったからこそ、キリスト者は神を「誇りと」(11)するのである。以前にも見たように、聖書において誇るとは土台に据える、よりどころとするということである。キリスト者は自分をではなく、恵みの神を人生の土台とするのである。

 そしてキリスト者が神を誇りとすると言うときには、同時にふたつのことが理解されているはずである。ひとつは人の弱さ、もうひとつは神の強さである。人とは弱き者であり、神は強き方である。だからこそ人は神を土台とするときにこそ強められる。パウロも第二コリント書12章10節で「わたしが弱いときにこそ強い」というまことに印象深い言葉を語っている。

 では、人の弱さとは何か。そのことを正しく理解するには6節にかえらねばならないだろう。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった」(6)
  人にはさまざまな弱さがある。わたしたちもまた、日々の生活においてしばしば自分の弱さを嘆く。しかし嘆くとともに、ときに自分の弱さの中で開き直ったり、自分の弱さに同情してくれる人を求めたり、同情を得ることで満足してしまうということはないだろうか。

  けれどももしもそうなら、キリストというお方はわたしたちにとってたんなる同情者、理解者にとどまるであろう。あるいはキリストの十字架の死は、たんにキリストがわたしたちの弱さをともに分け合われた出来事にすぎなくなるであろう。あるいはキリストの教会は同情の施設、たがいの弱さを慰め合う場所にすぎないということになるであろう。

 パウロがここで、キリストが人の弱さのために死んでくださったと語る場合には、おそらくこの世の人々が一般的に考える弱さということとはことなる、もう一歩深い問題が見据えられている。

 実はそのことは、パウロ自身の言葉からもわかる。つまり6節で「わたしたちがまだ弱かったころ」と言っていたパウロは、同じ6節ですぐに続けて「不信心な者」と言い、8節では「わたしたちがまだ罪人であったとき」と言いかえ、さらに10節では「(わたしたちが)まだ敵であったときさえ」と言いかえている。要するに人が弱いということは不信心であるということであり、罪人であるということであり、神に敵対しているということなのである。人の弱さは人の罪、アダムにある生まれながらの罪から来るものなのである。

 もしかするとわたしたちの弱さは、強くあろうとするときにこそあらわれてくるのではないだろうか。自分の弱さを認めることのできないありようこそが、わたしたちの弱さではないだろうか。自分をどこまでも強い者としようとし、自己正当化をこころみ、自分と隣人を偽る罪の沼の中にますます入り込んでいくとき、人のつくろいようのない弱さやもろさが露呈するのではないだろうか。

「わたしが弱いときにこそ強い」とのパウロの言葉も、そのような観点から考えてみるとき、たいへん含蓄の深い言葉だということに気づかされるのである。

 人が弱さの中で生き続けねばならないのは、罪と死と滅びを恐れつつ生き続けねばならないのは、根本的には神との敵対関係にあるためである。神の前に砕かれない、へりくだることのできない罪がわだかまって、神との関係をさまたげているためである。それゆえに、救いを受けるためには神との和解が必要であったのである。そのためにこそイエス・キリストは十字架に死んでくださったのである。わたしたちがまだ弱かったときに、不信心な者、罪人、敵であったときに、それにもかかわらずわたしたちを愛して、尊き血潮を流してくださったのである。この贖いの恵みを土台とし、よりどころとするとき、わたしたちは強くされる。人が強いとは、神の恵みによって強められるということ以外のことではないのである。         (2007.7.4 祈祷会)