ローマの信徒への手紙を読む(第4回)

4 信仰による従順
キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、
召されて使徒となったパウロから
(ローマ信徒への手紙1章:1節)


 わたしたちはこの方により、
その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、
恵みを受けて使徒とされました。(ローマの信徒への手紙1章5節)

  パウロは5節以下で、使徒のつとめとは何かをあきらかにする。
それはキリスト・イエスの
「御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導く」ことである。

  時は満ち、言は肉となってわたしたちの間に宿られた(ヨハネ1:14)。
キリスト・イエスの到来は、いまや旧約聖書の時代の選びの民イスラエルのみならず、
異邦人たちにも神の福音−喜ばしい知らせが分け与えられることを意味する。      

「神の福音」(1:1)の宣教は、まず何よりも神自身の決意である。
それゆえに、聖書においては伝道は命令として語られる。
「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタイ28:19)
「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」(二テモテ4:2)

使徒は福音を告げ知らせずにはいられない。
強いられてではなく、キリスト・イエスの愛にかりたてられて。
福音の宣教はキリストの愛と自由によるわざである。

 では、信仰はどのようにして生まれるのか。
この問いにパウロは10章14節で答えている。

「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」

 信仰はキリストの言葉を聞くことによって始まる。
これは神がお定めになったことである。
神はご自身のみ言葉を啓示したもうことによって、わたしたちが御子を信じる道を開きたもうた。

 このことを深く覚えよう。
わたしたちは、聞くことをおろそかにしていないか。
信仰が聞くこと以外の手だてによっても生じ、保たれると思っていないか。
そのことによって、この世の何かを信仰に混ぜ込んではいないか。
神と向き合ういとなみに、腰が引けないようにしよう。

 この世は御子について、さまざまなイメージをこしらえあげてきた。
時代によって、場所によってキリストの肖像がことなって描かれるとも言われる。
しかし、わたしたちはひたすらに聖書に固着しよう。
「救いのために、福音において提供されているままに」(ウェストミンスター小教理問答86)キリストを受け入れよう。

 神を信じることは、神に従うことと結びついている
(それゆえ、わたしたちがまっ先に祈り求めるべきは、神に対する従順さである−
わたしたちは祈りにおいてさえ、我意を通そうとする者である)。
そもそも神は人を、ご自身に従って生きる者として造りたもうた。
羊が羊飼いの声を聞き分け、羊飼いのあとに従っていくように、
わたしたちも神の言葉を聞き分け、神に従う。そこに祝福が約束されている。

 新約聖書において「従う」という意味をあらわすふたつの言葉
(「ヒプアクーオー」「アコルーセオー」)は、
ともに「聞く(アクーオー)」という動詞の派生語である。
つまり従うということの中に、すでに聞いて信じるということが含み込まれ、
前提されているのだ。

 信仰とは神がわたしたちに語りかけたもうみ言葉を聞き分け、み言葉に従うことである。
条件をつけず、留保をつけず、神の言葉の確実さにいっさいをゆだね、
信頼して一歩を踏み出すことである。
すでに老齢の身であったにもかかわらず家を捨て、故郷の人々と別れ、
ただ神の祝福の約束のみに頼んで行き先も知られぬ旅へと出て行った
アブラハムのように(創世記12:1〜4)。

 神は御子を通してわたしたちと出会ってくださり、
わたしたちにご自身の真実をあらわしてくださった。
神の真実を知ったわたしたちは、みずからも真実を尽くして神にこたえる。
いな、神は御子の福音によってわたしたちを魅了し、しっかりと捕らえてしまわれる。
神の恵みは不可抗的な恵みなのだ。
この恵みに、今や異邦人たちも捕らえられていく。
ローマ人のみならず全世界の民がキリスト・イエスのものとなって生き始める。
世界のいたるところで神のみ名があがめられ、神の栄光が輝きわたる。
使徒の宣教の働きによってキリスト・イエスを主とあがめ、
このお方に従順を尽くして生きる人々が増し加えられていく。
そうして、全世界でキリストの主権がうちたてられ、神の国は進展していく。
今このときも進展しつつある。

                          (2006.10.4 祈祷会)