ローマの信徒への手紙を読む(第41回)

41         アダムとキリスト(3)

 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、
罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。
すべての人が罪を犯したからです。
(ローマの信徒への手紙5章12節)

 「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ」(創世記3:5)

 あなた自身が神になれる−エデンでサタンがアダムと妻とを誘惑したこの言葉は、決して遠い昔の言葉ではない。わたしたちもまたときにこのように誘惑を受ける。人間のあらゆる罪の根には、神をさしおいて自分が神になろうとする、始祖アダムから受け継いだあの野心が、あの欲望があるのである。

 そして、それは創造の秩序−人が神によって造られ、神に命を与えられ、神のもとで生きるべき被造物であるというあの秩序がさかさまにされてしまうということなのである。神のもとではじめて生きていける存在であるはずの人間が被造物の分をこえ、神に背き、神から離れ、自分を神にまつりあげていくことを罪と呼ぶのである。

 この世界は権力と暴力によって支配されている。強い者が弱い者を力によって支配し、過酷な生存競争のなかで力ある者のみが生き残り、富める者が貧しい者からさらに取り上げる、それが世界の偽らざる現実である。旧約聖書を見ても、そのような世界を預言者たちは厳しく批判している。また詩編の詩人たちも、主よいつまであなたはこのような不正を見逃しておられるのですか、あなたの義をもってすみやかにこの世界を審いてくださいと叫び、祈り願っている。

 繰り返すが、このような世界の最も深い根のところでは、やはりあのサタンの誘惑の言葉−あなたが神に、支配者に、王に、独裁者になれるのだとの声が、あらゆる場所でささやかれ続けているのではないだろうか。その声に負けていかに多くの人々が、食べるなと命じられた木の実に手を伸ばすことであろうか。わたしたち自身にとっても、これは決してよそごとではないのである。

 罪が支配するところには死が支配する。罪と死とは、ちょうどコインの両面のようなものである。罪とは神に背き、神のもとを離れることである。被造物たる人間は、造り主から離れては生きていくことができない。羊飼いのもとから迷い出た羊のように、死の危険にさらされるほかはない。死の支配に呑み込まれるほかはない。実に人は罪ゆえに死ぬのである。罪が支払う報酬は死である(6:23)。

 そのように、アダムの罪にあって全人類は罪と死の支配する暗黒の中に置かれている。自由なき囚われの身となっている。けれども、世界はほんとうに知っているだろうか。そのような闇の中にあるのだということに世の人々は、あるいはわたしたちのひとりひとりはほんとうに気づいているだろうか。もしかするとこの世界こそ光の世界だと、楽園だと思い込んでいるのではないだろうか。暗闇に慣れてしまうと、そこが暗闇であることにも気づかなくなってしまうということはあり得ることではないだろうか。

 12節によれば、罪も死も「入り込んだ」ものである。つまり後になってから来たものである。はじめに神が創造された世界には存在していなかったものである。神のかたちに似せて造られたとき、人間には罪がなかったし、人間は死ぬ者でもなかったのである。

 ということはどういうことであろうか。ふたつのことが考えられねばならない。ひとつは、アダムにあって全人類は、今あるこの世界しか知らないということである。アダムが罪におちる、そして死ぬ者となる以前の、あのエデンの幸いを知らないということである。今目にうつっている世界こそが唯一の世界、唯一の現実であると思い込んでいる。この世界が罪に覆われていることも、人がやがて死ぬべき者であるということも、当たり前のこととして受け取っている−そういうことではないだろうか。そして人々は、この第一のアダムの支配下にある世界の枠の中で、命のことを考えたり生活のことを考えたり、愛や死や平和のことを考えているということではないだろうか。

 そこで、もうひとつのことが理解されねばならない。つまり人は第一のアダムにある世界と人間のこの現実について、自分自身では知ることができないのだということである。神のみ言葉によって、はじめて知ることを得るのだということである。                                      (2007.7.25 祈祷会)