ローマの信徒への手紙を読む(第43回)

43 アダムとキリスト(5)

 しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。
一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、
神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、
多くの人に豊かに注がれるのです。

(ローマの信徒への手紙5章15節)

 罪と死からの救いということこそが、およそ人間の根本問題にして、緊急の課題であることは言うまでもない。しかし人間がおのが知恵に頼っているかぎり、この問題は謎であり続ける。罪と死の不可解を解き明かし、同時にそこからの救いの道筋をうち開いてくださるのは、神おひとりである。神がみ子イエス・キリストを通してわたしたちのためになしたもうたみわざによって、わたしたちは救いを受ける。そしてわたしたちはただ神の言葉−聖書を通してのみ、その救いの道を知ることができるのである。

最初に創造された人間、全人類の代表、典型的人間、まさに人間そのものであるアダムから、罪と死は人類に入って来た−そのようにまことに鮮やかに、パウロは罪の起源を語る。聖書によれば、罪と死とは表裏一体の関係にある。死は罪の結果である(6:23)。罪によってもたらされる死は、いっさいの終わり、行き止まり、滅びである。
   しかしパウロはもうひとりのアダム−イエス・キリストについても語る。この第二のアダムが、ちょうど非常口の扉の前で待ち受ける救助隊員のようにして、わたしたちを罪と死とから救い出してくださったのだとパウロは言うのである。
   わたしたちは第一のアダムのさだめを背中に背負って生きている。そのようなわたしたちにとって死は危機であり、最後の敵であり、わたしたちの命をさまたげる隔ての厚い壁、出口なき袋小路である。
   しかし第二のアダムの到来によって、死はその意味を大きく転換させられたのである。まさにキリストにあるときには、死は人間の分岐点、百八十度の転換点となったのである。危機から救いへの、滅びから命への転換点である。キリストによって、わたしたちを窒息させる厚い壁に、脱出のための非常口が設けられるのである。

 この罪と死からの救出は、ただひたすらに神の愛と恵みによることであったということを覚えたい。ここでパウロが何度も恵み、あるいは賜物という言葉を繰り返しているのには、深い意味があるのである。みずからの救いに関してわたしたちは指一本触れなかった。わたしたちはまさしく救助されたのである。
    そして、救助隊員が人命救助のさいに自分の命を落とすことがあるように、キリストはご自身の命とひきかえに、わたしたちを救い出してくださったのである。
   第一のアダムにある罪と死の支配の手ごわさを突き破るためには、アダムを通して全世界を覆うこととなった罪と死の法則を破綻させるためには、第二のアダムが聖霊によってマリアから生まれ、罪人のひとりに数えられ、苦しめられ、あざけられ、そして死ななければならなかった。第一のアダムのすえとして生まれたすべての人間の死を、ご自身の死と引き換えにしなければならなかった。それゆえ、神はみ子キリストを第二のアダムとしてわたしたちのもとに来たらせ、死なせたもうた。
   ここに神の愛がある。神は愛であられるので、わたしたちがもはや罪に苦しむことがないように、死の恐れに呑み込まれることがないように、み子を死なせ、よみがえらせたもうたのである。
   それゆえ「今から後、主に結ばれて死ぬ死人は幸いである」(黙示録14:13)。それゆえ「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(黙示録21:4)。

 そのようにパウロはふたりの人−最初のアダムと第二のアダム−イエス・キリストとを並べて論じている。しかし、ふたりのアダムは決して同じ重さで立っているのではない。わたしたちはここで、両方の皿に同じ重さの分銅を乗せられてつりあっている天秤をイメージすべきではない。この天秤はあきらかに不均衡である、つりあいを失っているのである。
   つまり「恵みの賜物は、罪とは比較になりません」(15)。最初のアダムと第二のアダムとは−罪と、その罪を贖い赦す恵みの重さとは、比較にならないのである。第一のアダムにある死の支配と、第二のアダムにある命の支配とは、比較にならないのである。恵みの力が、神の赦しと命の力が、罪と死の力をはるかに凌駕するのである。命が死を圧倒するのである。                    (2007.8.15 祈祷会)