ローマの信徒への手紙を読む(第44回)

44 アダムとキリスト(6)

 一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、
なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、
一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。

(ローマの信徒への手紙5章17節)

 15〜17節にはふたりの人−アダムとキリストとが並べられていると同時に、ふたつの支配ということもまた並べられている。ふたりの人に共通しているのは、おのおののなしたことがすべての人間にまで及ぶ支配力を及ぼすこととなったということである。アダムの罪はすべての人に死の支配をもたらした。しかしキリストの十字架の贖いも、すべての主の民たちに命の支配をもたらした
  
そして前回も見たように、キリストの命の支配はアダムの支配とは比較にならないのである。キリストの恵みの力はアダムの支配を凌駕してしまっているのである。神の恵みは人の罪を覆ってあまりあるのである。

 わたしたちの罪を赦すキリストの十字架のみわざは、完全で十分なものとしてなしとげられた。わたしたちのどのような罪をも贖う神の恵みの力が、十字架の上でふるわれた。それゆえわたしたちは罪の赦しを信じることができる。一点のくもりもなく、神がわたしたちの罪をひとつ残らず赦し、わたしたちを義としてくださったことを信じることができるのである。
  わたしたちは覚えておきたい。今やアダムにある罪と死の支配は、キリストにある命の支配にとってかわっている。第一のアダムは第二のアダムに呑み込まれている。人はふたりの主人に兼ね仕えることはできない。アダムはもはや過去の人であり、わたしたちは今やキリストのもの、キリストの命を生きる者である。まったく新しい人間である。

 確かに今なお罪と死の闇がこの世界とそこに生きる人々を覆い尽くしているかのように見える。しかし第二のアダムが来たりたもうた今は、罪と死の現実は究極の支配力ではなくなった。確かにアダムの罪の残滓は今なおわたしたちのうちにある。けれどもキリストにあって生きている者は、もはや罪とのつながりを断ち切られているのである。罪の縄目からときはなたれているのである。
   だからこそ、わたしたちは今や罪人としての交わりに生きる者ではない。新しい人間として、新しい交わりをつくるのである。それが使徒信条が「聖徒の交わり」と呼ぶ交わりである。
それが、キリストの体なる教会の各部分(一コリント12:12以下)として
生きるということである。

   わたしたちの存在の根拠、命の土台はもはやアダムではなく、キリストである。わたしたちは信仰によって義とされているが、なお罪赦された罪人である。しかしだからと言ってわたしたちの存在の根拠がくずれてしまうわけではない。キリストはわたしたちがこれまで犯した罪も、これから犯すであろう罪も、すべて除き去ることのできるお方だからである。

 もはやわたしたちは、神のみ顔を恐れてエデンの木の間に身を隠したアダムのようにして生きる必要はない。罪人であるのにあたかも罪なき者のごとくに神を、また自分自身を、隣人を偽って生きる不自由さから、わたしたちはすでにときはなたれている。今あるありのままの姿でわたしたちを愛してくださるお方の恵みのみ座に近づくことができる。無償で、豊かに与えてくださるこのお方の命にあずかることができる。そして、十字架のもとでおたがいを愛し、受け入れ合って生きることができる。たがいの罪を告白し、赦し合って歩むことができる。これこそが第二のアダムに支配されて生きるということなのである。
   このキリストの愛と自由の支配は、今すでにわたしたちのうちに始められている。ある神学者は、わたしたちはキリストが生きられたその同じ命に生かされていると語っている。すなわち、キリストは罪と死に勝利した復活の命にあって、今わたしたちを生かしてくださっている。それは目立たないしかたであるかもしれないが、確かな事実である。取るに足りないような日常の生活であるかもしれないが、その生活はすでによみがえられた主のみ手にある。

 わたしたちが主の日ごとにささげる礼拝も、きわだって劇的な礼拝であるとは言えないかもしれない。しかしそこによみがえられたキリスト、今も、そしてとこしえに生きておられるキリストが臨在したもう礼拝であるかぎり、まさにその場所で罪の赦しが実現し、永遠の命の祝福が喜び祝われる幸いな礼拝なのである。第二のアダムの恵みに支配された礼拝なのである。                       (2007.8.22 祈祷会)