ローマの信徒への手紙を読む(第45回)

45           アダムとキリスト(7)

 そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、
一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。
(ローマの信徒への手紙5章18節)

  12節から続けられていたアダムとキリストをめぐる論述は、18〜21節をもってしめくくられる。パウロは18節で、まずこれまで論じてきたことをもう一度確かめる。ひとりの人によって全人類が、すべての彼の子孫が罪と死の支配のもとに置かれた−これは人間の理性や考えでははかることのできない、到達することのできない真理である。そしてこのように言われる以上、このアダムの問題は個人的な問題にはとどまらない。この世に生まれ、生きるすべての人間が共通してかかえている問題である。人間の根本問題である。つまりこのわたしを含めた世界中のすべての人間がアダムなのである。
  もしも神がこのアダムの世界に、罪と死の闇に支配された世界を憐れみ、ご自身のみ手をもって介入してくださらなかったとしたなら、世界は救われることはなかったであろう。わたしたちのひとりひとりも、今なお古いアダムの支配のもとに置かれていたであろう。

 しかし、神はほむべきかな。神は第二のアダムをこの世界に遣わしてくださった。闇を光にかえたもうために、死を命にかえたもうために、神のひとり子が第二のアダムとして来たりたもうたのである。
  そしてこのことによって、世界の歴史とそこに生きる人間のありようがまさしく覆されたのである。
  ふたりのアダムの共通点は、ともにその子孫に影響力を持ち、支配力をふるったというところにある。第一のアダムは、彼のすべての子孫を罪ゆえに死なせることとなった。しかし、第二のアダムの命と恵みによる支配も、そのすべての子孫に及ぶこととなった。そして恵みの賜物は、罪とは比較にならない(15)。第二のアダムの支配は、第一のアダムのそれとは比較にならないほど偉大なのである。第一のアダムは第二のアダムに呑み込まれたのである。すなわちわたしたちのひとりひとりも、この世界も、第一のアダムのもとにはないのである。今や世界の主はアダムではなくキリストであり、わたしたちの主もアダムではなくキリストである。
  第二のアダム−キリストは、十字架の上で第一のアダムを罪と死の中に投げ込んだサタンの支配とたたかい、これをうちやぶられた。このサタンに対する完全な勝利によって、すべてのアダムのすえを罪と死の縄目からときはなちたもうた。今や世界は、またわたしたちも、アダムからキリストへと移されている。死から命へと移されている。今なお古いアダムの残滓はわたしたちの中に残り続けているが、すでにその支配力は決定的に奪われているのである。

 ともかくそのように、第二のアダムの勝利はただたんにわたしたちの命にかかわる事柄にとどまらず、世界全体、人類全体の歴史的転換であることを覚えたい。第二のアダムのもたらしたことは、この世界のさだめが覆り、死が死ではなくなり、絶望が希望にかわり、これまで世界と人間とを縛りつけていたあらゆる限界が取り払われる、そういう出来事であったのである。イエス・キリストとはそのようなことをなしたもうたお方であり、イエス・キリストが救い主であるとはそのような意味なのである。第二のアダムによってこのわたしの人生がかえられたのみならず、世界のさだめも覆ったのである。百八十度転換したのである。
  明治以来の日本のプロテスタント教会の信仰の特徴としてよく指摘されることは、信仰が個人的な領域にとどまってしまう傾向があるということである。神がわたしの生活の、わたしの家庭の、あるいはわたしたちの教会の神にとどまってしまうということである。しかし、神は大いなる方である。
わたしたちは、神をわたしたちの手で小さなお方にしてしまうべきではないのである。

  聖書を通して、わたしたちは神がわたしの神でありたもうと同時に、世界と人類の主なる神でありたもうことを知る。信仰とは神をわたしの手の中に置くということではない。神の救いの歴史の中にわたしが引き込まれ、組み込まれることである。そうであれば、信仰が個人的なものにとどまっているはずはないであろう。
 わたしたちにとって大切なことは、天地創造から世の終わりの新天新地にいたる、旧約の創世記から新約の黙示録にいたる、救いの全歴史をわきまえたうえでみ言葉を読み、救いの真理を把握し、そして教会や時代や世界の問題を考え抜いていく姿勢を養うことであろう。そのような信仰の視野をきちんと据えていくために、アダムからキリストへの消息を鮮やかに描き出してくれる5章12節以下は、実に重要な箇所なのである。 

(2007.8.29 祈祷会)