ローマの信徒への手紙を読む(第46回)

46      アダムとキリスト(8)

 律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。
しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。
こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、
わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。
(ローマの信徒への手紙5章20〜21節)

 18〜21節の中で、パウロが万感胸に迫る思いをもって記しているのは、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれたとの一言(20)であろう。
  律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためであった。前にも見たように、聖なる律法が与えられるまでは人類は罪を罪として認識し得なかった。暗い部屋に長く居続けるといつしかその暗さに慣れてしまう。そこに明かりがともされるとき、はじめてそこが暗い場所であることに気づく。その明かりの役目を果たすのが律法である。そのように律法の役割のひとつは、暗さに気づかせるということである。すなわち、罪人に罪の自覚を与えることである。
  しかし律法にはもうひとつの役割がある。すなわち律法はわたしたちに神の義を示し、その神の義に照らして自分が不義なる者であることを自覚させ、救いを求める思いを与え、わたしたちをイエス・キリストのもとへと導いていくのである。ちょうど道案内をする人のように、わたしたちの手をとって第二のアダム、メシアのもとへと連れて行くのである。
  それゆえに、律法が与えられたこともまた恵みである。自分が第一のアダムのすえであり、第二のアダムの救いが必要であることを知らされなければ、わたしたちはおのが罪と悲惨のうちに滅びていたはずだからである。

 そしてパウロは言う。罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれたと。
 この言いかたは矛盾しているのではないだろうか。人の罪が増し加わるところでは、神の怒りと呪いこそが増し加わるのではないだろうか。それが神の義というものではないだろうか。
  しかし、人の罪が増したところには神の恵みが満ちあふれたのである。神は人の罪に対して怒りや呪いをもってお臨みにはならなかったのである。実に、あふれんばかりの恵みをもってお臨みになったのである。ここに神の愛がある。この愛によって世界は、わたしたちは救われたのである。
  神はかつて旧約の選びの民イスラエルをご自身への不従順の罪ゆえに滅ぼし、捕囚の苦難をお与えになった。しかし審判の時が満ちて神はイスラエルを赦し、預言者イザヤの口を通してこう仰せになった。「わたし、このわたしは、わたし自身のために/あなたの背きの罪をぬぐい/あなたの罪を思い出さないことにする」(イザヤ43:25)
  ほかの理由はない。イスラエルが自分で罪の贖いをなしたとか、そういうことではない。わたしが全能の神であり、愛であるがゆえに、いつまでも人の罪に対する憤りをあらわし続けることをしない。わたしは人の罪を贖い、赦すことができるゆえに、わたし自身の自由をもってもはやイスラエルの罪を思い起こすことをしない−このみ言葉は、第二のアダムの裂かれた体と流された血潮とによって文字通り成就したのである。

 この世界を支配しておられるのは主なる神である。わたしたちの命と人生を支配しておられるのもこのお方である。そして神は、この世界の歴史とわたしたちの人生において、まことにくすしい、驚くべき計画を持っておられた。そしてその計画を第二のアダム、ご自分のひとり子イエス・キリストを通して実現したもうた。
  一人のアダムを通して、罪と死の悲惨がこの世界に入った。一人の人の不従順によって、全人類が不従順のもとに置かれた。
  しかし、それは実に全人類が神の恵みを知るためであったのである。ひとり子を十字架につける神の愛と憐れみとをすべてのアダムの子孫が鮮やかに知るためであったのである。そしてすべてみ子を信じる者が神の恵みと命の支配のもとで、神に従順な僕として生まれ変わるためであったのである。

 神は第二のアダムを通してわたしたちに罪の赦しと永遠の命の恵みを豊かに注ぎ、わたしたちを第二のアダムにあって生きる新しい、祝福された人間に生まれ変わらせてくださった。そのことを知るとき、わたしたちもまたパウロとともに、ああ神の富と知恵と知識の何と深いことか、だれが神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう(11:33)と叫ばざるを得ないのである。                  (2007.9.5 祈祷会)