ローマの信徒への手紙を読む(第48回)

48           新しい命(2)

 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、
その復活の姿にもあやかれるでしょう。
(ローマの信徒への手紙6章5節)

  パウロは5節で、キリストを信じる者はキリストにあやかるのだと言っている。今キリストを信じて生きているわたしたちのひとりひとりも、キリストにあやかって生きているということである。
  あやかるとは身に帯びるということであり、合わせられる、ひとつになるということである。キリスト者は死において、命において、そしてその生涯のいっさいのいとなみにおいて、キリストにあやかる。マルティン・ルターはキリスト者とは小さなキリストであると語ったと伝えられるが、わたしたちキリスト者は文字通りキリストを生きるのである。わたしたちが洗礼によって古いアダムに死に、第二のアダムにある新しい人間に生まれ変わったとはそのような意味である。そしてそのようにわたしたちをキリストにあやかる者につくりかえてくださったのは、キリストのみ霊である。

ハイデルベルク信仰問答の70問は以下のように語る。

ハイデルベルク信仰問答の70問
問)
キリストの血と霊とをもって洗われるとは、どういうことですか。
答)
それは、キリストが十字架の上のその犠牲において、お流しになった血のゆえに、神により、その恵みのゆえに、罪のゆるしを得る、ということであります。さらに、聖霊によって、新しくせられ、聖別されてキリストのえだとなり、時とともに、いっそう罪に死に、神に祝福せられた、罰せられることのない生涯を歩むようになることであります。

   洗礼の恵みについて述べるこの問答の前半には、罪の赦し、いっさいの罪がキリストの血によって確実に洗いきよめられる恵みが記され、そして後半には聖霊によってキリストにあやかることの恵み、すなわち聖化の恵みが記される。 
  この中の「聖霊によって新しくせられ、時とともにいっそう罪に死に、神に祝福された生涯を歩むようになる」というくだりについて、ある神学者はこう解説している−私はもう新しくなった、聖霊に導かれて歩む新しい人間になった、そのことが、時とともに、それからの私の毎日の生活の中で、だんだん表に現れ出てくる。毎日の生活がまるでキリストを装いとし、キリストを自分の着物にしてしまった、そうとしか思えない姿を見せるようになる。私の言葉や姿や行いがキリストに似てくる。キリストに覆われてしまう。そういうことが起こる。

 それがまさにここでパウロの言う、キリストにあやかるということではないだろうか。そしてわたしたちは、わたしたち自身もキリストにあやかるのだということ、キリストにあやかってキリストご自身の愛と赦しと平和を身に帯びて生きる者とならせていただけることを信じることをゆるされているし、また祈り求めることをゆるされているのである。なぜならそれは、すなわち聖化のわざはわたしたちがなしとげていくわざではなく、キリストのみ霊がわたしたちのうちに働き、そして完成させてくださるみわざだからである。聖化の恵みもまた神からの贈り物なのである。

   わたしたちはこの地上の生涯において、キリストを信じて生きるいとなみにおいて、しばしば試練にも遭遇する。しかし、キリストもまた試練にあわれたことを思い起こすのである。わたしたちは、試練においてもキリストにあやかる。わたしたちは苦難の中に置かれることもある。しかしキリストの地上生涯は、まさに苦難のご生涯であった。わたしたちの受ける苦難は、キリストご自身がお受けになった苦難と別のものではない。わたしたちは苦難においてもキリストにあやかる。
   そしてわたしたちは死においてもキリストにあやかる。死をこえる永遠の命においてもキリストにあやかる。キリストがわたしたちの初穂として死から復活したもうた以上、わたしたちも永遠の命、不死の命によみがえる。
 キリスト者はキリストを生きる。キリストご自身にあやかる。そのことは神のみわざにもとづく確かな現実である。神がもたらしたもうた現実である。聖霊のみわざである。それゆえにわたしたちは、いかにわたしたち自身の姿が貧しく見えようとも臆することはない。神がわたしたちをキリストに結びつけてださった。それゆえに聖化の完成の時を待ち望みつつ、信仰と希望とによって生きることができるのである。
(2007.9.19 祈祷会)