ローマの信徒への手紙を読む(第49回)

49       新しい命(3)

 わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、
罪に支配された体が滅ぼされ、
もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。
死んだ者は、罪から解放されています。

(ローマの信徒への手紙6章6、7節)

 今回と次回とで6節、7節を見たい。まず7節から見ていきたい。7節は言う。「死んだ者は、罪から解放されています」
   この短い言葉は、何を意味しているのだろうか。おそらく前後のつながりを考慮せず、この一言だけを取り出して聞くなら、ここでのパウロの真意とはまったくことなる意味に解釈されることも起こるであろう。
    つまり、死んでしまった者はもう罪の責めを受けずともよい、あるいは死んでしまったなら、生きていたときのあらゆる罪の重荷からもときはなたれる、そういう意味にも受け取られる言葉ではないかと思うのである。死者に鞭打つことはほめられたことではないとの理解も、この世には広く見受けられる。生きていたときにはいろいろと憎しみや恨みを持っていたとしても、その人が死んでしまったならきれいに忘れることが美徳であるとも考えられる。ともかく死とは、これを前にするならすべてが帳消しになるほどに大きな出来事とされるのである。  

 ところで興味深いことは、実はこの7節はパウロが当時のユダヤ教の世界で広く知られていた言葉をもじって、言い換えてこのように語っていると指摘されていることである。そのよく知られていたユダヤ教の言葉とはこういう言葉である。「死んだ者は、あらゆる律法のおきてから解放されている」
   つまり、生きている間は多くの律法のおきてを守りとおさねばならないが、死んだならばもう律法を守ることの束縛からときはなたれるということである。そういう意味の言葉が、伝統的にユダヤ教徒たちの間に語り継がれていたというのである。もしそうであるとすれば、そのような信仰はいかに不自由なものであっただろうか。大きな重荷であっただろうか。

 このユダヤ教徒の言葉を、パウロは7節のように言い換える。わたしたちは、ここでパウロが語る死の意味を正しく理解しなければならない。3〜4節に、それは語られていた。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを/わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」

すなわちここでの死とは肉体の死のことではない。ここでの死とはわたしたちがイエス・キリストを信じて洗礼を受けたときに、ひとしく経験したところの死である。キリストが十字架上で一度死なれたように、わたしたちも一度死んだ。わたしたちの古い人、第一のアダムは死んで葬られた。完全に息の根を止められた。

そしてそれは、キリストが復活されたようにわたしたちもキリストにある新しい命に復活するためであった。もはや罪の支配のもとにも、死の呪いのもとにもない新しい人間として復活するためであった。

ユダヤ教ファリサイ派(かつてはパウロもそこに属していたのだが)における救いとは、自分の功績によって自分を救うことであった。そこでは、あなたがたは死んだと語ることができるだろうか。できないであろう。あなた自身のがんばりにあなたの救いがかかっていると説く教えは、その「あなた」が死んでしまったなら、ひとたまりもないからである。生きているからこそ功績を積み上げていくこともできるからである。
  しかし、そこではあの第一のアダムが生き残り続けることになるのである。罪と死に支配された人間の根っこが生き残ることになるのである。

福音の真理はまことに驚くべき、人間の思いをはるかにこえた真理である。なぜならそれは、死の中で見出される命の真理だからである。パウロはガラテヤ書では、わたしはキリストとともに十字架につけられている、生きているのはもはやわたしではなく、キリストがわたしのうちに生きておられると語る(2:19、20)。また第二コリント書では、キリストに結び合わされた人はだれでも新しく創造された者である、古いものは過ぎ去り、新しいものが生じたと語る(5:17)。洗礼による、イエス・キリストの死と復活にあやかるわたしたち自身の、古い人の死と新しい人の復活−このことを理解することこそ教会が、またわたしたちがキリストの福音に生き続けるための生命線である。人はキリストにあって死に、キリストにあって生きる。パウロはこの真理に立って揺らぐことがなかったのである。                     (2007.9.26 祈祷会)