ローマの信徒への手紙を読む(第50回)

50           新しい命(4)

 わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、
罪に支配された体が滅ぼされ、
もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。
死んだ者は、罪から解放されています。

(ローマの信徒への手紙6章6、7節)

 6節でパウロは言う。「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています」

「罪に支配された体が滅ぼされ」は、別の聖書翻訳では「罪の体が壊され」となっている。神は造り上げるお方であられ、また壊すお方でもあられる。神は造られたものを自由に取り扱いたもう。神は恵みによってわたしたちを造られた。ご自身のかたちに似せて造られた。そして第一のアダムにあって罪におち、神のかたちを喪失したわたしたちの罪の体を、同様に恵みによって取り壊したもう。それはわたしたちが新しい体に生きるためである。

 そしてこの新しい体は、もはや罪の奴隷ではない。キリストに支配された体、キリストの体である。洗礼においてキリストとともに十字架に死に、キリストとともに復活することによってわたしたちに起こることは、このように仕えるべき主人を取り替えるということにほかならない。かつてわたしたちは罪を主人とし、罪に奴隷のように支配され、束縛されていた。罪の言いなりになっていた。
   しかし今やわたしたちは、キリストのみ霊に生かされて生きる者である。ただキリストのみに支配されている者である。そしてキリストに支配されるということは、人間を奴隷化するこの世のもろもろの力、罪の力から解放されている、自由にされているということである。

 わたしたちはキリストにあって死に、キリストの命によみがえった。このような新しい霊の現実にあって、わたしたちは朽ち行く偶像に仕えるのでも、金銭に仕えるのでも、この世の王や権力に仕えるのでもなく、悪しき霊の支配に仕えるのでもなく、神とキリストと隣人に奉仕し、朽ちることのないまことの命のために働く者、神の国の進展に仕える者につくりかえられているのである。
 誰を主人とするか、誰に仕えて生きるか、それはわたしたちの人生にとって決定的なことである。洗礼によって、罪の奴隷であったわたしたちはキリストの奴隷とされた。この身分の変化はまさしくわたしたちの生きざまの変化となってあらわれる。そしてわたしたちが今や救いを、命を受けた人間であることを神と隣人とに対して証しすることにもなるのである。

 そして6節でやはり見逃すことのできない言葉は、「体」という言葉であろう。
 人間は魂のみならず、体をもって生きている。神は人間を魂と体の双方を持つ者として造られたのである。それゆえわたしたちは、神に造られたこの口をもって語り、この頭で思索し、この手で仕事をし、この足で歩く。それにもかかわらず、わたしたちはおのおのの救いということを考えるとき、どれほど体のことを重んじているだろうか。救いとは魂のみの事柄であって、体とは関係のないことだと考えてはいないだろうか。神はわたしたちの魂のみならず、体の救い主でもあられるのである。
   そして今わたしたちに授けられているこの体は、キリストの贖いにあずかり、新しい人間として再創造された体である。パウロは、古い罪の体は神の恵みによって破壊され、無力にされ、今わたしたちはキリストにある新しい体をもってキリストに仕えて生きていると語るのである。

 「神よ、あなたはわたしのこの額に、この耳に、目に、鼻に、口に、腕に、足に、心臓に、わたしの五体に十字架の印を刻んでくださっています」−ある神学者の祈りである。わたしは今や魂も肉体もキリストのものなのである。この祈りをわたしたちも、日々たゆみなく祈り続けたい。  一方でこの新しい体は、日々の信仰のいとなみにおいて新しく獲得し続けていくものでもある。わたしたちはなお聖化の途上にあるからである。

  わたしたちの目標は、復活し天に昇りたもうた、その天にあるキリストの栄光の体である。終わりの日のキリストの再臨の日にわたしたちもまた復活して、キリストの体に似た新しい体、栄光に輝く体を与えられるのである。その大いなる祝福にあずかる日を目指して、地上にあるかぎりわたしたちはこの魂と体とをもって神をほめたたえ、キリストを礼拝し、神と隣人とこの世とに仕えて生きるのである。