ローマの信徒への手紙を読む(第51回)

51      新しい命(5)

 わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、
キリストと共に生きることにもなると信じます。

(ローマの信徒への手紙6章8節)

キリスト者とそうでない人との違いはどこにあるのだろうか。さまざまな答えかたがあると思うが、キリスト者は週に一日、必ず死と命の問題と向き合う、それが信仰を持たない人々との違いであるというのがひとつの答えかたではないだろうか。
 キリスト者は主の日ごとに礼拝に集い、神のみ言葉に耳をかたむける。礼拝はイエス・キリストが死をうち破って永遠の命に復活したもうたことを記念し、この命の神をあがめるわざである。日本人は死をタブーとし、正面から取り上げることをきらう傾向を持つ、死をなるべく遠ざけようとするとの指摘がある。そういうことからすれば、主の日ごとに死と向き合うキリスト者はそれだけでもユニークな存在であるとも言えよう。

 ただし(言うまでもないことだが)キリスト者はただ漠然と死や命の事柄を考え続けているというのではない。たとえばキリスト者でなくとも、死の問題が始終頭から離れない、死の恐れからときはなたれないという人はあるであろう。あるいは死の解決を求めて古今東西のさまざまな知恵者たちの書物を読みあさるという人もあるかもしれない。
 キリスト者はそのようにはしない。キリスト者は、死の事柄も命の事柄もいずれもイエス・キリストというひとりのお方をとおしてわかってくるのだということを知っているからである。イエス・キリストの死をとおして人間の死は知られ、イエス・キリストの命をとおして人間の命は知られる。
 死と命について理解しようとするときには、そのしかたというものがある。イエス・キリストにおいてそれをなすということである。イエス・キリストの死と命をとおして、人間の死と命の真理がはじめて見えてくるのである。

 ある神学者は、説教とは十字架の言葉を語ることであり、それゆえ人間およびいっさいの人間的なものの死をのべ伝えることこそが説教の課題であると述べている。すなわち説教とはイエス・キリストの十字架と復活の言葉を語ることなのである。
 「墓のあるところにのみ復活は起こる」と言われるように、説教壇はいっさいの人間の言葉の墓場である。なぜならそこで大切なのは復活であり、神だからである。神そのものが理解されるところではじめて、神礼拝は本当に神への礼拝となる。神が本当に礼拝されるところで、まさにそこで人間もまた軽んじられることはない。人間がまさしく最も深いところで待っているのは、ほかならぬ神が神として宣べ伝えられるようにということである。いっさいの人間的なものの死こそ、説教の課題である。そして聖書においては、死から命へのまことに注目すべきこの道筋が唯一のテーマである。そこでは人間が死に、神の栄光が帰せられる。そこでは十字架と復活が中心であり、すべての道がそこに向かっている」(E・トゥルナイゼン)

 説教をとおして、わたしたちはイエス・キリストの死と命の言葉を、すなわち十字架と復活の言葉を聞く。そして大切なことは、キリストの死と命の言葉を聞くことがまさしくわたしたち自身の死と命について聞くことだということである。なぜならわたしたちは今やキリストのものだからである。キリストにつながる洗礼を受け、魂も体もともにキリストに結合されて生きる者だからである。
 パウロは3節以下で、わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、キリストの死にあやかる者となったと、そしてそれはキリストが死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためであると語っていた。さらに5節では、キリストを信じる者はその死の姿にも、また復活の姿にもあやかるのだと語っていた。
 さらに8節では、わたしたちはキリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると語っている。キリストと共に死に、キリストと共に生きること。これこそがキリストを信じる者たちの命のいとなみである。そしてここにこそ、死の問題の真の解決がある。イエス・キリストのもとにこそ、死をこえる命の祝福があるのである。                             (2007.10.10 祈祷会)