ローマの信徒への手紙を読む(第52回)

52      新しい命(6)

 わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、
キリストと共に生きることにもなると信じます。

(ローマの信徒への手紙6章8節)

 8節にはふたつのことが述べられている。ひとつのことは、わたしたちはキリストと共に死んだということ、そしてもうひとつのことは、わたしたちはキリストと共に生きることにもなるということである。
 まず、わたしたちがキリストと共に死んだということについてである。この「死んだ」という言葉は、過去に一度決定的に死んだという意味を表す言葉である。つまり、その死の完全性を意味する言葉である(10節に「ただ一度」という言葉が出てくる)。
 イエス・キリストはこの地上の歴史においてただ一度、すなわちあの二千年前のエルサレムで、ゴルゴタの丘で死なれた。その死は完全なものであった。そのことをハイデルベルク信仰問答41問も、主イエスの墓への埋葬ということとのかかわりで、
まことに印象的な言葉で語っている。

<ハイデルベルク信仰問答>

問41 なにゆえに、主は葬られたのですか。

答   まことに死んでしまった、ということを、証するためであります。

 主の死は完全な死であった。それゆえ主の復活も、仮死状態からの蘇生といったものではなかった。
 重要なのは、そのように主の死が完全な死であったということは、わたしたちを罪から救う主の十字架の贖いのみわざが確かな、完全なものであったことを示しているということである。それゆえ主がまことに死んでしまわれたという事実こそ、わたしたちの救いの確かさの根拠なのである。

 なにゆえに主は死なれたのか。その死がわたしたちの救いとなるためである。罪なき神の子が罪の価を支払うことによって、わたしたちははじめて無罪とされたのである。自分で自分を救い得ない、義とし得ないわたしたちにかわって、神の子が死んでよみがえってくださった。そして主のそのただ一度の完全な死は、第一のアダムにあるすべての者の罪を贖ってあまりある死だったのである。
 わたしたちは漠然と死や命の問題を考えるのではない。イエス・キリストの死と命をとおして考える。すなわちイエス・キリストの死と復活が、このわたしのものであるということを理解する。わたしたちはキリストと共に死に、キリストと共に復活する。死においても命においてもキリストにあやかる。
それはわたしたちに向けられた神の愛と恵みによって起こったことなのである。

 付け加えて言えば、主イエスの死によってこの世界に、そしてわたしたちにもたらされた罪の贖いと救いの恵みの効力は、今にいたるまでいささかも変わることはない。時代がくだるにつれて弱まっていくというのではない。この大きな恵みは世の終わりにいたるまで揺らぐことはないのである。 
 主の死は完全な死であった。罪の贖いにおいてまったき死であった。それゆえわたしたちはどのようなときにも安んじて生きることができる。自分はほんとうに罪から救われているのか。罪赦され、義とされているのか。最後の審判にたえ、み国に入ることができるのか。そのように心配したり、不安にかられることはない。わたしはキリストと共に死に、葬られた。それゆえキリストと共に生きることにもなる。そう信じて、平安のうちに生きたならよいのである。

 ヨハネによる福音書3章にニコデモというファリサイ派の議員が出て来る。主イエスが彼に、人は新たに生まれなければ神の国を見ることはできないと仰せになったのに対して、彼は新しく生まれるとはもう一度母の胎に入って生まれなおすことか、と尋ねた。しかし、古いままのニコデモがもう一度生まれなおすなら、それは古い罪のアダムのままで蘇生するようなことにしかならないであろう。
 新しく生まれるためには、死ななければならないのである。しかも、完全に死ななければならないのである。かりに不完全な死というものがあるとすれば、それは不完全な命をしかもたらさない。つまり完全な死とまったき命の祝福とは、表裏一体のものなのである。わたしたちがキリストの福音に生きる、福音を体得して生きるというときにも、このことをわきまえるということが実に大切なのではないだろうか。前回紹介したトゥルナイゼンの言葉で言えば、第一のアダムはすでに取り壊されている。すでに死んで、葬られてしまっている。それはわたしたちにとって、圧倒的な恵みの事実なのである。          (2007.10.17 祈祷会)