ローマの信徒への手紙を読む(第53回)

53      キリストに結ばれて(1)

 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、
生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、
キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
(ローマの信徒への手紙6章10、11節)

  6章1節以下でパウロは、キリストにある新しい命について論じてきた。それはたとえば8節ではキリストと共に死に、キリストと共に生きることであると言われ、さらに10,11節ではキリストはただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは神に対して生きておられる、だからキリストを信じる者もおのが罪に対して死に、神に対して生きているのだと言われてもいる。
 キリストと共に死に、キリストと共に生きる。あるいは罪に対して死に、神に対して生きる。これがキリスト者の命のありようだということである。そしてキリストと共に生きるということを、パウロは別の言いかたで言い表してもいる。たとえばキリスト・イエスに結ばれる、(キリストに)あずかる(3節)、(キリストに)あやかる(5節)といった言いかたである。キリスト・イエスに結ばれるという表現は11節でも用いられる。キリストと共に死に、生きる。キリストの命を共有する。それはキリストに「結ばれる」ことであり、キリストに「あずかり」「あやかる」ことなのである。

 宗教改革者のジャン・カルヴァンはこのことを「キリストとひとつになる」という言葉で表現している。カルヴァンは、救いとは何かと尋ねられたときには、キリストとひとつになることだと答えたとのことである。わたしたちもこのさい覚えておきたい。救いとはわたしたちがキリスト・イエスとひとつになることである。死においても命においてもひとつになることである。
 『キリスト教綱要』3:1:1にこう言われる。「まず第一にはっきりさせておかなければならないのは、われわれがキリストの外に立ち、そして、かれから離れて立つかぎり、かれが人類の救いのために苦しみたもうたこと、またなしとげたもうたことのいっさいは、われわれにとって無益であり、何ひとつの意義も持たないということである。かれの所有したもうものはすべて、われわれがかれと一体となるにいたるまでは、われわれに達しないからである」
 わたしたちがキリストとひとつになる、一体となる、そのことがわきまえられないうちは、キリストがわたしたちのためになさった救いのみわざは無意味だと、いつまでもわたしたちにとってかかわりのないものにとどまり続けると言うのである。

  このわたしがキリストとひとつになる−よくよく考えるなら、これは信じがたいことではないだろうか。また、恐れ多いことではないだろうか。しかし、その信じがたいことが起こされるのである。恐れ多いことが現実となるのである。これは神がすべてのキリスト者に起こしたもうことである。まさしくこれは、神の秘儀としか言いようのないことである。実にキリスト者とは、神の秘儀に生きる者なのである。

 そして、この身の引き締まるような思い、畏れ、あるいは気後れといった感覚、すなわち聖なるお方が肉なるわたしたちとひとつになって生きたもうときにわたしたちのうちに生じる聖なる感覚が、わたしたちの信仰の生活においてきわめて大切なのである。信仰者として生きるということはこの聖なる感覚に生かされて生きるということなのである。これが失われてしまうときには教会の礼拝も、個々のキリスト者の生活も、生きた命を失うのである。このキリストがわたしたちとひとつになりたもうことにともなって生じる聖なる感覚こそ、わたしたちの信仰のすこやかさをはかるはかりである。

 加えて、この聖なる感覚は磨くことができる。磨くことによっていよいよとぎすますことができる。そのための手だては、ウェストミンスター小教理問答88問が「通常の恵みの手段」と呼ぶ三つの手だて−み言葉と聖礼典と祈りである。

 わたしたちは主の日ごとに礼拝をささげ、み言葉を聞き、聖餐を受け、そして祈ることによって、信仰の秘儀すなわちキリスト・イエスとひとつになることの祝福をより深く、より鮮やかに知らされていく。それが聖化、すなわちキリストにあやかっていくいとなみなのである。        (2007.10.31 祈祷会)