ローマの信徒への手紙を読む(第54回)

54 キリストに結ばれて(2)

 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、
生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、
キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
(ローマの信徒への手紙6章10、11節)

 救われるとはキリストとひとつになることだということを前回確かめた。前回も確かめたように、これは神がわたしたちに起こしたもう秘儀である。パウロはガラテヤ書2章で、今やわたしがではなく、キリストがわたしの内に生きておられると語っている。身の引き締まる思いがするが、このようなことがすべてのキリスト者に起こる。キリスト者とはまさしく神の命の秘儀に生きる者なのである。

ただ、キリストとひとつになるというとき、わたしたちは誤解をしないようにしたい。と言うのは、キリストとひとつになるということはキリストとこのわたしとがそのままひとつに合わさって、あるいは混じり合って、キリストとわたしとの境目があいまいとなり、わたしが神がかるということではないのである。むしろ日本人の宗教観にあっては、こちらのほうがわかりやすいのではないだろうか。たとえば新興宗教の教祖たちにも、こういうことはよく見られる。それまでは農家の主婦であった人にある日突然神がくだってくる。そして神の言葉を話し始める。このような人をシャーマンと呼んだりする。

 聖書においてキリストとひとつになるとは、そういうことではない。そこでは神のみわざがあくまでもわたしたちの外から来るみわざであることがわきまえられねばならない。日本人の宗教観にあっては神と人との区別はきわめてあいまいである。しかし聖書においては神と人、造り主と被造物とはどこまでも区別される。

 信仰の体験は大切なものである。しかしあまりにも人の内なる信仰体験に比重が置かれてしまうと、人の外側から、天から語りかけられる神の言葉を聞くことがおろそかになることもあるのではないだろうか。そうしたところでは、キリストとひとつになるという言葉は本来の意味とはことなった意味合いで受け止められてしまうであろう。

 そのように、神はわたしたちの外なるお方である。しかしその外なるお方が、同時にわたしたちの内なるお方ともなられる。これこそが、人がキリストとひとつになるということの意味なのである。カルヴァンが言ったように、もしもキリストがわたしたちから離れて立っておられるならば、私たちの外に立ち続けておられるならば、キリストのみわざはすべて意味を持たない。キリストがわたしたちの内なるお方になられないうちは、キリストがわたしたちのためになしとげてくださったことのいっさいは無意味である。そこで、キリストはわたしたちに近づき、わたしたちと結合し、わたしたちとひとつになってくださったのである。

 では、そのようにキリストとひとつになるということは、具体的にはどのようにして実現したのだろうか。このことは私たちの信仰の理解ということにおいてきわめて重要な部分にあたる。世々の改革派の神学者たちは、この部分こそキリスト教信仰の要であると説いている。それゆえこの際、しっかり理解しておきたい。

 まず、わたしたちがキリストとひとつになるというとき、そのキリストは今どこにおられるのかということを問わねばならない。

 キリスト・イエスは今どこにおられるのか。あのクリスマスの日に、言は肉となってわたしたちの間に宿られた(ヨハネ1:14)。まことの神がまことの人となられた。そしてこのお方は人の世を支配する罪と死の支配を打ち滅ぼすために十字架にかかられ、そして三日目に死を破ってよみがえられた。そして天に昇られ、全能の父なる神の右のみ座に着座された。

 すなわち、主イエスは今天におられる。十字架の釘跡の刻まれた復活のみ体をもって、天におられる。主は天におられ、わたしたちは地上にある。当然そこには、天と地の距離がある。

 このことを覚えるなら、キリストとひとつになるということがキリストのみ体とわたしたちの体とが直接に合わさり、そして混じり合うというのではないのだということが理解されるはずである。キリストの住まいとわたしたちの住みか、天と地のへだたりということを考えるなら、そのようなことは起こりようがないのである。

 では、そのように天と地の距離があるにもかかわらず、どうしてわたしたちがキリストとひとつになることができるのか。次回そのことを考えたい。     
                                                  (2007.11.7 祈祷会)