ローマの信徒への手紙を読む(第55回)

55           キリストに結ばれて(3)

 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、
生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、
キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
(ローマの信徒への手紙6章10、11節)

 救いとはキリストとひとつになることである。しかし今イエス・キリストのみ体は天にあり、わたしたちは地上にある。それゆえわたしたちがイエス・キリストと合わせられる、結合するということがほんとうに起こるとすれば、その天と地のへだたりがうずめられねばならない。
 そのへだたりをうずめてくださるお方こそ聖霊−キリストのみ霊である。み霊は父、み子とともに全能の神であられる。み霊の全能のみ力によって天と地との距離は克服され、わたしたちはキリストに合わせられる。わたしの外なるお方である神が、わたしの内なるお方となられる。わたしの中に住まわれる。わたしの体はキリストのみ霊の住みたもう宮である。これはまさしく秘儀である。教会もキリスト者のひとりひとりも、この神の秘儀に生かされているのである。

 そこで忘れてはならないことは、今天にあり、聖霊のきずなによってわたしたちとひとつになりたもうキリストは、天に昇られる前に十字架に死なれ、そしてよみがえられたお方であるということである。そしてそれはわたしたちのためであったのである。
 キリストはまことの神であられるのに、なぜまことの人ともなられたのであろうか。それはわたしたちの罪を身代わりに担い、わたしたちに罪の赦しと神との和解と永遠の命の祝福をもたらすためであった。そのためにベツレヘムの家畜小屋に生まれたもうたみ子は、ゴルゴタの十字架に死に、三日目によみがえられたのである。
 以前にも確かめたように、キリストとひとつになるということはキリストとわたしとが混ざり合って、わたしが神がかることではない。もしキリストとひとつになるということがそのようなことだとすれば、わたしの罪の問題はどうなるのだろうか。わたしの罪が贖われたということをどこで確かめたらよいのだろうか。わたしとキリストとがあいまいに混ざり合うというなら、そこでわたしの罪の問題もあいまいになってしまうのである。わたしの救いの確かさということも揺らいでしまうのである。
 わたしたちはわたしたちを救いたもうための神のみわざに指一本触れてはいない。十字架の片棒をかつぐなどということは不可能であったのである。救いは徹頭徹尾神の恵みによることであった。主イエスが家畜小屋で生まれたもうたこと、十字架への道を歩みたもうたこと、ゲッセマネで苦しみ祈られたこと、ゴルゴタの丘で息絶えられたこと、そして墓を破ってよみがえられたこと、そのいずれもが地上における歴史的出来事として、すなわちわたしの外で起こされたことである。その、わたしの外で神がなさったことが、わたしの内で生きて働く。わたしがキリストにあやかる。キリストが死んで葬られたように、このわたしも古い自分を死んで葬られた。キリストが復活したもうたように、わたしもキリストのみ霊によって新しい人として復活した。ここではじめて救いは成り立つのである。

 そのように、わたしたちはわたしたちのために死んでよみがえられたキリストとひとつになるのである。わたしたちのために人となり、そのみ体を十字架による犠牲の体としてささげることによって神との和解の恵みをわたしたちにもたらし、死の支配からわたしたちを贖い出し、復活の栄光のみ体をもってわたしたちを新しい命へと招き入れてくださった、このキリストのただひとつのみ体と結びつけられることによって、今は天にあるこのただひとつのみ体とわたしたちの地上の体とが聖霊のきずなによってまさにひとつに合わせられることによって、そのことによってのみ、わたしたちの救いは完成するのである。ここにこそ、すなわちわたしたちの体がキリストの天の体によって贖われるということにこそ、福音の真髄があるのである。
 わたしたちはこの祝福を、主の晩餐の礼典において鮮やかに見る。わたしたちが信仰をもって主の体と血とにあずかるとき、まさに天にある主の復活のみ体と合わせられるのである。わたしたちの魂と肉体とが、キリストとひとつになるのである。聖霊なる神がそのような恵みを起こしてくださるのである。そうであるからこそ、ジャン・カルヴァンは聖餐の礼典を命の秘儀と呼び、聖餐をこそ主の日の礼拝におけるクライマックスと位置づけたのである。                             (2007.11.14 祈祷会)