ローマの信徒への手紙を読む(第56回)

56           キリストに結ばれて(4)

 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、
生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、
キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
(ローマの信徒への手紙6章10、11節)

 わたしたちの地上の体は、聖霊の絆によって天にある復活のキリストのみ体に結びつけられ、ひとつにされているのだということを確かめた。実はこの事実こそが、わたしたちの地上における歩みかたを根本的に定めていくのである。
 まず、今キリストのみ体は天にあり、私たちの体は地にあり、両者が聖霊によってひとつに結ばれるということは、わたしたちの体、わたしたちの存在が地上にありつつつねに天へと引き上げられるということを意味する。わたしたちのまなざしは天に向けられ、わたしたちの心は高く挙げられるのである。
 キリスト者は世捨て人のように生きるのではない。キリスト者の生は現実逃避の生ではない。むしろキリスト者は地上のただ中を歩む。地の上にみ国を来たらせるために労し、働く。しかしパウロが別の手紙で語っているように、キリスト者の本国は天にある。したがってわたしたちは地上では寄留者、旅人として生きる。そして、上にあるものを求めて生きる。今み子がみ父とともにいます場所こそが、わたしたちの本国だからである。
 キリストの十字架の贖いにあずかったわたしたちは、すでにアダムにある古い、罪の体を葬り去られている。そして地上にあるかぎり、わたしたちの体になおまとわりつく罪の残滓とたたかい続ける。そのわたしたちの希望は、やがてわたしたち自身の卑しい体も天にあるキリストの栄光のみ体に似せられる、やがてわたしたちも壊れやすい地上の幕屋を脱ぎ捨て、イエス・キリストにあって朽ちることのない永遠の体を着せられるということである。
    それゆえキリスト者が天を見上げ、上にあるものを求めて生きるというのは現実逃避とはあきらかにことなる。むしろ地の上にしっかりと足場を置いて、この世を神の栄光の場所に変革していくための確かな、かつしたたかな歩みなのである。

 もうひとつのことも言い得る。今キリストの栄光のみ体は天にある。しかし、わたしたちはその栄光のキリストが、世の終わりの日には天からふたたび地上に来たりたもうことを知っている。その日すべての者は再臨のキリストの審判を受け、そのときにこそわたしたちは死からよみがえらせられ、約束の体、復活の栄光の体を着せられるのである。その日にこそわたしたちの救いは成就する。それゆえに教会とキリスト者の最大の希望はキリストの再臨である。教会はたえず主よ来たりませとの祈りによって、
また主を待ち望む信仰と希望によって生かされているのである。

 それはすなわち、わたしたちがキリストのみ体と結合され、ひとつにされることによって、わたしたちの地上での足取りが前へと、つまり終わりの日の主の再臨の祝福へとひっぱられていくということである。ここでも、わたしたちは世捨て人ではない。この世の歴史のいとなみを大切にする。そしてこの世の現実がどのように見えるときにも、逃げることなく、希望を失うことなく、ゆだねられたつとめを忠実に、責任をもって担い果たしていく、神の栄光のために精一杯に生き抜く、そういう歩みを歩むのである。 

地上においてはなお信仰のたたかいがある。しかし、わたしたちはすでに今聖霊の絆によって、わたしたちのために死んでよみがえってくださったお方と結びつけられている。このキリストとの結びつきはみ言葉と礼典と祈りによって日々強められていく。そして終わりの日にはわたしたちは文字通りキリストとひとつにされる。ここにこそわたしたちの目標があり、そして希望がある。人生には苦しみや悩みもつきまとうが、わたしたちは目にうつる現実をこえて、霊の目をもってキリストを仰ぎ、再臨のキリストを希望を持って待ち望む。なお激しい戦闘の続いている中で、兵士が勝利の日を待ち望むように、わたしたちはキリストを待ち望む。この待ち望みがわたしたちをこの世の現実の中で強め、生かすのである。

そのようにわたしたちは、目を天に上げてキリストを仰ぎ、前を向いてキリストを待ち望む。キリストのみ体と結合されることにより、わたしたちは上へと引き上げられ、前へと引っ張られる。これこそがキリスト者の生のすがたなのである。                                                 (2007.11.21 祈祷会)