ローマの信徒への手紙を読む(第57回)

57           献身(1)

 また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。
かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、
また、五体を義のための道具として神に献げなさい。
(ローマの信徒への手紙6章13節)

 6章1〜11節において、パウロはキリスト・イエスを信じる者に与えられる新しい命の恵みについて説き明かしていた。キリスト者はキリストにあやかる洗礼にあずかることによってキリストとともに十字架につけられ、古い罪に死んで葬られ、キリストとともに復活し、新しい命を生き始めるのだと、それゆえにもはや罪の支配からも死の支配からも解放され、自由にされているのだということを、パウロは論じていた。
 それらのことを受けて12〜14節では、パウロはローマの信徒たちに勧告をする。あなたがたはもはや罪と死の支配へと逆戻りするのではなく、今すでに入れられているキリストの恵みの支配のもとにとどまり続けなさいとの勧告である。
 キリストを信じる信仰は、決して心の中で信じるという段階にとどまっているのではない。信仰はわたしたちのふるまい、生活、生きかたにまで及ぶ。キリストの救いの恵みはわたしたちの心のみならず、五体をも支配する。キリストを信じることによって、わたしたちの心も、言葉も、行いもすべて変えられていくのである。

 かつてはわたしたちの主人は罪であった。わたしたちは罪に支配された、文字通り罪の奴隷であった。わたしたちの五体は罪の道具としてほしいままにあやつられていた。この罪に支配された体を、わたしたちはどうすることもできなかった。
 しかし今や、わたしたちの主人はキリストである。わたしたちは十字架のキリストの血によって罪贖われ、義とされ、キリストの所有とされて聖化の祝福の中で生かされている。キリストのみ霊の支配はわたしたちの命と存在のすみずみにまで及んでいる。み霊はわたしたちの心も、体も、体のおのおのの器官をもとらえていてくださっている。守り、支えていてくださっている。
 そのような恵みの現実ゆえにこそ、パウロははっきりと、また大胆に、ローマの信徒たちに命じることができたのである−あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。(13)

 信仰は、具体的に神のみ言葉に聞き従う生活、神の救いの恵みにこたえる感謝と献身の生活を生み出すのである。神の恵みが注がれるところでは、その恵みに応答するいとなみも生まれる。おのずから生まれずにはおれないのである。それゆえパウロがキリストとの結合による新しい命の恵みについて語った後に、すぐに続けてこのように感謝と献身の勧めをなすことは、きわめて自然なことなのである。
 聖書は義とされる恵みのみならず、聖化の恵みをもきちんと語っている。信仰義認の真理を語り示すこのローマの信徒への手紙が、このように信徒たちに聖なる生活をも命じているのである。わたしたちは聖化の指標として十戒を重んじる。十戒は過去のもの、旧約の時代だけに意義を有した古い戒めであり、新約のキリストの時代には捨てられてしかるべきもの、と考える人もあるかもしれない。
 しかし、新約の時代にあっても十戒は神の言葉である。むしろキリスト・イエスの恵みの光のもとで、十戒は新しい意義をもって命を吹き返すのである。
 すなわち、パウロは14節で、あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にいるのだと語る。キリストの贖いにあずかる以前、古い罪のアダムを生きていたおりには、律法はただわたしたちを糾弾し、有罪の判決をくだすためにあった。生まれながら罪の中にあるわたしたちは、自力で神の義の戒めを守り行うことはできないからである。律法はすべてのアダムのすえにそのことを知らしめたのである。

 しかし、キリストにあって新しく生まれたわたしたちは、キリストの自由を享受して生きている。キリストのみ霊がわたしたちを支配し、守り、導いてくださっている。わたしたちはもはや律法の下にはない。恵みの下にある。それゆえ、神の恵みにこたえて生きることができる。十戒のひとつひとつの戒めに聞き従って生きることができる。もちろん、自力によってではない。恵みによってである。キリストのみ霊の恵みに生かされることによってである。つまりわたしたちは、自力で神の戒めを守り行い得る人間となるのではない。聖霊がわたしたちをそのような人間につくりかえてくださるのである。新しい人間にしてくださるのである。                                   (2007.11.28 祈祷会)