ローマの信徒への手紙を読む(第58回)

58           献身(2)

 なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。
あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。
(ローマの信徒への手紙6章14節)

 ウェストミンスター小教理問答は、救いの恵みを三つの恵みとして教えている。義とされる恵み、子とされる恵み、聖とされる恵みである。信仰によって義とされることのみならず、聖化もまた恵みの道筋であることを覚えたい。義とされるところまでは恵みであるけれども、その先の聖とされること−聖化の生活は、今度はわたしが腕まくりをしてがんばるというのではないのである。そうだとすればキリストを信じる生活にさえ律法主義が忍び寄り、わたしの誇りが忍び寄るということになるであろう。霊によって始めたのに、肉によって仕上げる(ガラテヤ3:3)ということになってしまうであろう。

 確かに12、13節でパウロがなしていることは勧告であり、命令である。パウロはローマ教会の信徒たちに、あなたがたはこのようにせよ、と言うのである。そうである以上ローマの信徒たちの意志が問われ、また責任も問われている。信仰の生活というのは、神と隣人に対する責任性の中で生きるということにほかならない。

 しかし、よく考えたい。その意志も、キリストのみ霊によってふたたび生き返らされ、すこやかにされる恵みにあずかったのである。生まれながらに罪の奴隷であり、神に背いて生きることしか知らなかったはずのわたしたちが、今神のみ言葉を喜び、み言葉に従って生きることを喜びとして生きている。生けるときも、死ぬときも、わたしの唯一の慰めは、わたしがキリストのものであることだと告白しつつ生きている。これがまさしく聖霊のみわざなのである。罪ゆえに死んでいたわたしたちの五体を、キリストのみ霊はキリストの命の恵みによって再生せしめてくださったのである。

 聖化の道は聖霊の恵みが百パーセント、同時にわたしの意志も百パーセントと聞いたことがある。そのようにしか表現し得ないことかもしれない。いずれにせよ、わたしたちは感謝と献身の生活をなしとげていくことができる。神の言葉を守り行って生きることができる(前回見たように、十戒はキリスト者の聖化の指標である)。この五体を聖なる、神の栄光をあらわす道具として生かし、用いていくことができる。なぜなら、神の恵みはどこまでも確かだからである。わたしたちは今や律法の下にではなく、恵みの下にいるからである。罪の力も死の力も、もはやわたしたちをとらえることはないからである。

 とは言え、キリスト者の聖化はこの地上にあるかぎり完成はしないことも事実である。わたしたちは最後の試練−死の試練をとおって、はじめてまったき聖化にあずかる。そうである以上、地上を生きているかぎり罪の残滓がわたしたちのうちに残り続ける。罪とのたたかいがなお続く。ここでもパウロは罪に支配されないように、罪とたたかうべきことを勧めている。そのたたかいは、礼拝につらなって聖書を読み、聖餐にあずかる生活において担われるのである。

 ある先生が、キリスト者と言えども聖書と正面から向き合うことは、実は決してやさしいことではないという意味のことを語っておられたことが印象に残っている。これはそのとおりであろう。聖書一巻とじかに向き合うことはなかなかしんどいことでもあるということは、実際にそういうこころみをなしてみるならば、わたしたちのだれもが実感するにちがいない。

 なぜなら、わたしたちは罪赦されてなお罪人であり、神の言葉から逃れようとする思いをなお引きずっているからである。この世は神の言葉よりも心地よい(と感じられる)言葉や物やさまざまな刺激に満ち満ちているのである。

 けれども五体を聖なる道具とせよ、自分自身を神にささげよとの勧めを聞くときに、あるいは聖化の道筋や罪とのたたかいということを考えるときに、わたしたちは漠然とではなく、具体的にそのことを考えねばならない。つまり、罪とのたたかいということは聖書を読むところ、み言葉を聞くところでまさになされているのである。わたしたちがキリストのみ霊の支配に生きる新しい人になるためのたたかいは、すでに聖書を読むところから始まるのである。なぜなら聖霊はわたしたちを聖なる者となさるとき、み言葉をお用いになるからである。

 み霊はわたしたちを、キリストにあるまことの自由のもとにときはなってくださる。恵みのみ霊こそが、わたしたちを福音の恵みの自由のもとで神に従う人となしてくださるのである。  (2007.12.5 祈祷会)