ローマの信徒への手紙を読む(第59回)

59      永遠の命(1)

 

 知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、
その従っている人の奴隷となる。
つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、
神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。
(ローマの信徒への手紙6章16節)

 パウロは、人間とは奴隷であると言う。しかも罪を主人とし、罪に仕える奴隷であるか、それとも神を主人とし、神に仕える奴隷であるか、そのいずれか、あれかこれかであると言う。
 奴隷は文字通り、主人の所有物である。命も財産も、みな主人の手の中にある。奴隷は主人にさからって生きることはできない。奴隷をどのように処遇するか、それはまさに主人の自由である。奴隷の人生とは、主人に支配され、束縛され、服従する人生のほかにはない。

 そうである以上、人が神の奴隷でありつつしかも罪の奴隷でもある、ふたりの主人に兼ね仕える、そのようなあいまいなことはあり得ない。信仰によってキリスト・イエスとひとつに結ばれ、神の恵みの支配のうちに入れられたわたしたちが、同時に罪の支配下にもあるということはあり得ない。罪はもはやわたしたちを支配してはいない。わたしたちは今や罪の支配からときはなたれ、神の恵みの支配の内に入れられた信仰の生活者である。そして信仰の生活者は罪の生活者とはまったく反対の側に立っているのである。

 ヨハネの手紙一3章6節にこうある。「御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません。罪を犯す者は皆、御子を見たこともなく、知ってもいません」

 御子の内にいる人は罪を犯さない−まことに確信に満ちた言葉である。しかしここでパウロが言うように、神の内にあるということそのものが罪と反対の側に身を置くことだということが理解されるなら、このみ言葉も理解されるはずである。

 わたしたちが神に仕え、義に至る奴隷であるとのこのパウロのたとえは、まさしく神の救いのみわざの完全性、確かさの表明である。神の恵みは身動きできないほどにしっかりとわたしたちをとらえ、離さないのである。救いはわたしたち自身の行いや功績を土台にしているのではない。神がイエス・キリストをとおしてわたしたちのためになしてくださったみわざこそが救いの土台である。それゆえ義とされることも、聖とされることも、まったく確かなのである。だからこそわたしたちは、御子の内にある者はもはや罪を犯さないと確信をもって言うことができるのである。そのように信じることができるのである。神の確かさに信頼してよいし、信頼すべきなのである。

 奴隷は主人に背くことはできない。わたしたちも神に背くことはできない。神に抵抗することはできない。神の恩恵はまさに不可抗的である。神の恵みはあいまいな、どっちつかずのものではない。神がひとたびわたしたちにみ顔を向けられるなら、わたしたちをとらえて離したまわないのである。神はご自身の絶大な恵みをもってわたしたちの全生涯、いっさいの地上におけるいとなみを束縛し、支配したもうのである。

 神の奴隷となることは、神以外のあらゆるものから自由になることである。神の奴隷となるときにこそ、わたしたちは真の意味における自由人である。なぜなら神は自由そのものでありたもうからである。そのことを知っていたからこそ、パウロはしばしば自分のことを「キリスト・イエスの僕」と自己紹介したのである。彼がこう言うとき、このわたしこそキリストにあって真の自由人だという、深い喜びと感謝の思いを込めていたにちがいないのである。

 今日の日本の社会には、もちろん奴隷制度はない。しかし現代日本社会に生きる人々は、現実にはいかに多くのものに縛られていることだろうか。国家の、政治の、あるいは会社の、学校の、家庭の、さらには富の奴隷となって生きている人々がいかに多いことか。人間の命と肉体とを奴隷のように支配するもろもろの力が、いかに生々しく働いていることか。

 神の恵み、キリストの不可抗的恵みは、そのいっさいの支配からわたしたちをときはなち、自由にしてくださった。キリストの福音によってわたしたちはまことの命の祝福のもとに招かれ、そして生かされている。わたしたちが今や罪の奴隷ではなく、神の奴隷であること−このことは神の一方的な恵みによって起こされたことなのである。                               (2007.12.12 祈祷会)