ローマの信徒への手紙を読む(第6回)

5 賜物

 あなたがたにぜひ会いたいのは、
霊の賜物をいくらかでも分け与えて、
力になりたいからです。
(ローマの信徒への手紙1章11節)

1章8節から15節のところで、パウロは
ローマ教会についての感謝とともに願いをも記す。
彼の願いは、何とかしていつかはローマ教会を訪れ、
ローマの信徒たちにひと目会うことだった。
ローマ教会はパウロが福音を宣べ伝え、礎を据えた教会ではなかった。
彼はまだ一度もこの教会を訪問したことがなかった。

まだ一度も出会ったことがない者同士でも、
イエス・キリストを信じる信仰を同じくする者たちは、
たがいに親密な聖徒の交わりをなすことができる。
手紙によっても、愛の絆を結ぶことができる。
けれども交わりが深まっていくほどに、
実際に顔と顔とを合わせたいとの願いもつのってくる。
そこに生きる信徒たちと膝をまじえて生活をしたいとの思いも増し加わっていく。
これは自然なことであろう。

 ローマの信徒たちに会いたいと願う理由としてパウロが最初に挙げるのは、
聖霊の賜物を分け与えて、教会の力になりたいということである。
使徒が聖霊の賜物を分け与える。
これは、まだ信仰に入って間もない信徒が多くを占める教会では
当然求められたことであろう。
使徒パウロはそのかぎりにおいて与え手であり、教会は受け手である。

けれども力になりたい、という言葉のニュアンスからは、
いわゆる上下関係、支配と被支配の関係は感じられない。
むしろ使徒と教会とは同じ地平に立っている。
彼らは対等である。
教会のかしらなるキリストにあって、彼らは聖徒の交わりを対等に結びあう。

 このことはおそらく、
そもそも教会において聖霊の賜物が分かちあわれるということ自体の
持つ性質から来ている。
聖霊の賜物は教会の共有財産である。
そうであるからこそ、それは分かちあわれるべきものである。
聖霊の賜物は文字通り「賜物」、神からの贈り物である。
人間の内側にはじめから備わった何らかの力や知恵といったものではない。
キリストの教会は、そのような人間的なものによって動かされているのではない。

 およそ教会とキリスト者は賜物によって生きる。
それは、つねにおのが欠乏を自覚しつつ生きるということである。
ある神学者は言う。
「(キリスト者が生きるのは)たとえばかれの内面の豊かさによるのではけっしてない。
かれが現にあるところのものによるのではなくて、
まさに、かれが現にないところのものによって、
かれの欠乏によって、かれのなげきとのぞみ、待望と渇望によって、
かれの存在の内にあって、かれの地平をこえ、
かれの力をこえるある他者をさし示すすべてのものによってである。
使徒とはプラスの人間ではなく、マイナスの人間であり、
このような空洞があらわれるところの人間である」。
その「欠乏」と「空洞」によって、教会とキリスト者は
みずからの生の根拠、賜物を与えるお方、命の神を指さす。

 わたしたちはおのおのが福音の命の宝を盛り込まれた土の器(二コリント4:7)
であることを知っている。
土の器であるということの究極的な意味は、
罪の報酬を支払って死ぬべき者だということだと聞いたことがある。
まさしく命は賜物である(器自身が輝くのではなく、盛り込まれた宝が輝くのである)。

 さらに、わたしたちは、貧しき者は幸いなりとの主イエスのみ言葉を知っている
(マタイ5:3、ルカ6:20)。
貧しいとは空っぽであるということ。
空虚であるということ。
みずからを生かす命をみずからは持たないということ。
わたしたちは神によって命を与えられ、神の備えたもう賜物によって生かされ、養われる。

 それゆえにキリストの教会は、
賜物を分かちあうことの恵みと祝福の満ちあふれるところである。
賜物を豊かに備えたもう神への感謝の尽きせぬところである。
そこでは、与えていた者が受ける者ともなり、受けていた者が与える者ともなるだろう。

教会につらなって生きる者であればだれであっても、
聖霊の賜物を分かちあうわざに加わることができる。
教会に加わったばかりの者であっても、年若い信徒であっても、
たがいが受けた賜物をささげあい、信仰によって励ましあうことができる。
たがいの力になることができる。
これはキリストが教会に授けてくださる大きな喜びなのである。

                     (2006.10.25 祈祷会)