ローマの信徒への手紙を読む(第60回)

60      永遠の命(2)

 しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、
今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、
罪から解放され、義に仕えるようになりました。
(ローマの信徒への手紙6章17、18節)

 救いは神の恵みによる−これは聖書の真理である。救いは行いの法則によってではなく、信仰の法則によってもたらされる。そのことをこの手紙は、これまでのところでもしばしば語り示してきた。

 しかし、ここにひとつの問いもまた生まれる。すなわち神の救いのみわざと、人間の側のそれへの応答の問題である。さらには、神の救いのみわざにこたえる人間の意志の問題である。もしも人が神の救いの恵みによって救われ、生きるとするなら、人間の応答責任や意志はどうなるのか。これは信仰におけるまことに重要な問題のひとつであろう。

 この神の恵みと人間の意志の関係ということをめぐって、ローマの教会にもある誤解が起こっていたことは、パウロがこのような問いを発していることからも推測し得る。「では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか」(15)
 神が恵みによって救ってくださったというなら、依然として罪のもとにとどまったままでもよい、なぜなら神はどんな罪もゆるしてくださるお方なのだから−これが、おそらくローマの信徒たちの間に生まれていた誤解だったのである。これは、人間は神の恵みにこたえる必要はない、誤解をおそれずに言えば、救われた者は何をしてもかまわないとの考えかたである。神への応答ということを放棄して、自由気ままにふるまってもかまわないということである。

 このようなあさはかな誤解は、神の福音の論理を人間の論理にすりかえてしまうところに起こってくる。福音の論理、聖書の論理というものがあるのである。そしてそれはこの世の、人間の論理にそのまま当てはめることのできるようなものではない。福音の論理の奥深さは、人間の論理によってはとてもとらえつくすことはできない。聖書の論理は聖書そのものからたどっていかねばならないのである。聖書の語るところに忠実に聞き続けていく、聖書の事柄は聖書そのものをとおして理解する、そのようにするときにはじめて、わたしたちは聖書の福音の真理のくすしさに目を開かれていくのである。

 神が恵みの神ならば、人はどれほど無軌道な生活、どれほど神の言葉に背く生活をしていたとしてもゆるされる−ことはそれほど単純ではない。こうした誤解にパウロは断固否を言う−「決してそうではない」(15)
 神の恵みとこれに対する人間の感謝の応答、あるいは意志とは決して矛盾するものではない。たとえば、わたしたちは神の恵みによってイエス・キリストを信じる信仰へと導かれた。生まれながらに神に背く罪人であったわたしたちがみ言葉を受け入れ、悔い改めて信仰を告白するにいたる。神の敵であった者が神を礼拝して生きる者とされる。これは人間わざではない。まさしく奇跡であり、このような奇跡はただ聖霊の恵みのお働きによってのみ起こされる。

 しかし、そのように恵みによって救われ、イエス・キリストを主と告白して洗礼にあずかるとき、わたしたちは神と教会の前に誓約をなすのである。改革派教会の式文では、洗礼式や信仰告白式のさいに六つの項目について誓約することになっている。この誓約事項にはあきらかに神への応答ということが含み込まれており、そしてわたしたちはそのときだれに強いられたのでもなく、聖霊の自由のもとでみずからの意志をもってキリストを告白し、キリストのみ言葉に聞き従って生きるべき意志を表明したのである。
 この神への服従、あるいは神の救いの恵みへの感謝の応答ということを考えるとき、たいへん重要な意味をもつのが17節の「伝えられた教えの規範」という言葉である。つまり信仰とは「伝えられた教えの規範」を受け入れることなのである。

 教会が世々にわたって伝えていく、受け継いでいくキリスト教の教えの規範というものがある。これは聖書そのもの、神のみ言葉そのものであると理解することもできるし、聖書から導き出された教理、信仰規準、信仰告白のことでもあろう。いずれにせよ信仰には客観的な規準、客観的に信ずべきことがあるということである。おのおのが自分勝手に、自分の気に入るキリスト像ともいうべきものを描いていたのでは、それは信仰と呼び得るものとはならないのである。                     (2007.12.26 祈祷会)