ローマの信徒への手紙を読む(第61回)

61           永遠の命(3)

 しかし、神に感謝します。
あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、
今は伝えられた教えの規範を受け入れ、
それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。
(ローマの信徒への手紙6章17、18節)

 神が恵みによってわれわれを救ってくださったのなら、われわれは依然として罪の中にとどまっていてもよい、なぜなら神はどのような罪を犯しても赦してくださるのだから−そのような誤解がローマの信徒たちの間に生じていたように思われる。そしてパウロはそのような考えかたに対して、決してそういうことではないと断言していた(15)。

 つまり、神の救いの恵みとそれに対する人間の側の応答とは矛盾するものではない。わたしたちはおのがわざによらず、功績によらず、ただ神の恵みによって救われた。しかし、そのように恵みによって救われ、イエス・キリストを主と告白して洗礼にあずかったとき、わたしたちはおのおの神と教会の前に誓約をなしたのである。改革派教会の式文が求める成人洗礼や信仰告白のおりの六つの誓約事項には、あきらかにわたしたちの側の神への応答ということが含み込まれている。信仰の生活には、確かに人間の側の決断や責任という要素があるのである。

 前回も見たように、神に対する人間の服従、応答ということを考えるときにたいへん重要な意味を持つのが、17節の「伝えられた教えの規範」という言葉である。

 つまり信仰とは「伝えられた教えの規範」を受け入れることなのである。これは聖書そのもの、み言葉そのものと理解することもできる。さらに、聖書から導き出された教理と理解することもできる。パウロの時代にはすでにそうした文書が教会に存在していたようである。ちなみに使徒信条も(時代はかなりくだるのだが)もともとはローマの教会が洗礼を志願している求道者に準備教育をほどこすためにつくられた文書であったとされる。

 ともかく、信仰には客観的な規準、客観的に信ずべきことがあるということである。おのおのが自分勝手に、自分の気に入るようなキリスト像ともいうべきものを描いていたのでは、それは信仰とはならない。むしろ偶像礼拝となる。神は人間が勝手にご自身のことをねじまげてしまうことを戒めたもう。そして世々の教会に「教えの規範」をお示しになるのである。

  そもそも考えてみたい。神と人との関係は、人格的な交わりの関係である。神が人に呼びかけ、人がこれにこたえる。それは、聖書の信仰がはじめから人間側の応答を前提としているということである。そしてその応答も、人間の思いのままというのではない。神のみこころにかなうものでなければならない。

 だからこそ「教えの規範」がおのずから求められる。このような人格の関係の成り立っていない宗教、たとえば偶像礼拝では、「教えの規範」など不要である。人間が好きなように神を操ればよいからである。神が生ける神ではなく、はじめから死んでいる神であれば、神が人に呼びかけることも、人が神に応答することもないからである。

 いずれにせよ、そのようにイエス・キリストを信じ、洗礼にあずかるプロセスにおいて、わたしたちは神への応答や責任を問われ、あるいは信仰の決断をなす。そしてそういうことを、わたしたち自身がこれまでの信仰生活のなかで、実際に経験してきたのではないだろうか。

 救いが神の恵みによるということと、同時にそこで人間の側の意志も問われるということは、決して矛盾するものではない。だからこそパウロはあなたがたの五体を義のための道具としてささげなさいと、あるいは聖なる生活を送りなさいと言うことができたのである。ただ、そのことをわきまえた上で、わたしたちはひとつのことを正しく理解する必要がある。

 それは、わたしたちの神への応答は、決して強いられてそうするというものではないということである。わたしたちは神への愛と自由と喜びのもとで、そのようにするのである。否、キリストの愛に」駆り立てられて(Uコリント5:14)おのずからそのようにせざるを得ないのである。聖書は、神と人との関係を羊飼いと羊になぞらえる。羊が羊飼いのもとを離れず、羊飼いの声に聞き従うのは、羊飼いがどれほど自分を愛してくれているか、また羊飼いのもとにあるのがどれほど安らかであるのかを知っているからこそである。

                            (2008.1.9 祈祷会)