ローマの信徒への手紙を読む(第62回)

62           永遠の命(4)

 しかし、神に感謝します。
あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、
今は伝えられた教えの規範を受け入れ、
それに心から従うようになり、
罪から解放され、義に仕えるようになりました。

(ローマの信徒への手紙6章17、18節)

 パウロは16節で、人は罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に仕える奴隷となって義に至るか、あれかこれかなのだと言っていた。そうであるなら、人は神の奴隷となって命を得なければならない。そしてそこでは人間の側の決断や責任も問われるのだということも、これまで確かめてきたとおりである。

 ではパウロはここで、人間側の決断のみを求めているのだろうか。あなたがたは自分の意志と努力によって神に忠実な者とならねばならないとうながすのみなのだろうか。
 そうではない。パウロは続けて言う。「神に感謝します」(17)

 この17節の言葉は、ほかの聖書翻訳では「神に栄光あれ」もしくは「神はほむべきかな」、そういう強い感動をあらわす表現となっている。原文がもともとそういう調子をもった言葉なのである。

 17、18節でパウロが語るのは、神の恵みである。もう少し詳しく言えば、神の選びの恵みということになるであろう。神は永遠の昔からわたしたちを、キリストにある一方的な、主権的な恵みによって、永遠の救いへと選んでいてくださった。滅びに至る者であったはずのわたしたちを、永遠の命を得る者として選んでいてくださった。

 そしてイエス・キリストを十字架に死なせ、よみがえらせ、わたしたちに十字架の言葉を与え、聖霊の導きによって悔い改めを与え、信仰を与え、わたしたちを洗礼にあずからせてキリストとともにおのが罪に死なせ、神の義に生きる者としてキリストとともによみがえらせてくださった。こうして罪の奴隷であった者がキリストにあって神と和解し、義とされ、神の子とされ、聖なる者とされつつある。これらのすべてが、神の恵みによることであったのである。

 なぜパウロは、あなたがたの五体を神にささげよとの勧め(13)をなすことができたのだろうか。聖なる生活を送れと命じることができたのだろうか。

 それは、神の恵みが先行するという事実を知っていたからである。人間の側の応答も、意志も決断も、それはまさに人間の、あるいは人間的な決断であり応答であって、しかもなおそれ自身もまた神の恵み、キリストのみ霊の支配の外にあるのではないということをわきまえていたからこそである。

 聖化のいとなみは洗礼から始まる。それは確かに人から神へ、地から天へという方向を持っている。聖化の生活は、人が神の救いの恵みにこたえる感謝の応答の生活である。その規準は以前から確かめているように十戒であり、ここでの言葉を用いるなら「伝えられた教えの規範」ということにもなろう。ともかく、それに従うことが聖化の道である。

 しかし、そこでわたしたちが決して忘れてはならないことがある。それは、そのことの前に神から人へ、天から地への働きかけがあり、こちらのほうが先立つということである。

 つまり聖化は聖霊の恵みのみわざなのである。わたしたちは、みずから決断し、応答し、志を起こし、服従するいとなみにおいても、そのただ中においてわたしたちを聖なる者となすために働き続けてくださっている聖霊のお働き、キリストのみ霊の守りと諭しと執り成しと慰めのお働きのあることを、決して忘れてはならないのである。今日も、今このときも聖霊はわたしたちのために働き続けてくださっている。たゆむことなく働いて、わたしたちを主イエスとひとつに結びつけていてくださるのである。

 神の恵みと人間の応答とは決して矛盾しない。そしてそのことは、人間の論理の枠の中にとどまっているかぎり、決して理解され得ないであろう。神の恵みの圧倒的な力を知らされるときにこそ、はじめてこのことを理解し得るのである。

 「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(フィリピ2:12,13)

                          (2008.1.16 祈祷会)