ローマの信徒への手紙を読む(第63回)

63           永遠の命(5)

 あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。
では、そのころ、どんな実りがありましたか。
あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。
それらの行き着くところは、死にほかならない
(ローマの信徒への手紙6章20、21節)

 パウロは16節で、人間は罪の奴隷となるか、それとも神の奴隷となるか、あれかこれかであると論じていた。言葉をかえて言えば、第一のアダムにつながれて生きるのか、それとも第二のアダムにつながれて生きるのか、いずれかであるということになろう。

 いずれにせよ、これが聖書の人間観である。聖書によれば人間はあくまでもこのどちらかであって、中間というものはないのである。

 では、このような人間観はそもそもどこから来るものなのだろうか。これは、人間が神の被造物であるという創造の秩序にまでさかのぼるものである。つまり人は神に造られた者であるので、はじめから神のみ手にあって生きるべき者である。しかし人は始祖アダムにあって神のもとを離れ、自身を神として(創世記3:5)生きることをくわだてた(これこそ聖書の言う根本的な罪である)。ここにふたつの人間が生まれることになった。神から離れた第一のアダムに生きる人間と、第二のアダムの恵みによって神と和解し、神のふところにたちかえった人間とである。

 近代以後、科学の進歩とともに人間の自立(もしくは自律)ということが言われるようになった。そして人間は自分の足で立ち、自分の能力や知恵に頼り、自分の手で何事かをなすべきだとの考えは、現代にいたるまで根強く根を張っている。
 人間が自分の知恵や力に頼って生きるのであれば、もはや神など必要ない。むしろそのような生き方は弱者のものと考えられるようになり、人は次第にこの世界から神を締め出すようになっていった。名高い哲学者は「神は死んだ」と語った。

 しかし聖書によれば、人は神から離れたとしても、被造物であることをやめることはできないのである。神の秩序、創造の秩序をどこまでも引きずるものなのである。そして人が神なしに生きようとすることは、創造の秩序に背くことなのである。そのことは造り主から自覚的に離れた人間が実際にどのように生きるのかを見ればあきらかである。彼はひとりでは生きられないのである。つまり造り主を捨てたかわりに別の神をこしらえるのである。それが、この手紙においても論じられていた偶像礼拝の問題である。

 偶像とは宗教的な神々にかぎられない。富、名誉、権力、この世のあらゆるものが偶像となる。人は神から離れたかわりに、そのようなこの世の見ゆる、朽ち行くものに頼らざるを得ないのである。頼るのではなく、束縛され支配されるのである。それがパウロがここで言う、人間の奴隷状態である。

 20、21節のパウロの言葉を、現代に生きるわたしたちもよくかみしめるべきではないだろうか。この言葉から想起されるのは、たとえばルカによる福音書15章の「放蕩息子のたとえ」である。父の家から離れた弟息子は、自分の力で何でもできると思い、お金さえあればどんな望みもかなえることができると考えた。しかし彼はそのとき金銭の奴隷となり、自分自身にも束縛され、人間が本来生きるべき真の自由を失っていたのではなかったか。パウロは20節で、あなたがたは罪の奴隷であったときには、義に対しては自由の身であったと語っているが、これは呪いと悲惨にいろどられた自由と呼ぶほかにないものではなかったか。そして弟息子はついに、身をもちくずしてしまったのである。

 近代、あるいは現代という時代に、神から離れて自立した人間、自由の身となったはずの人間がもたらしたはずの実りはどのようなものであったのかということを、わたしたちは真剣に考えねばならないであろう。その実りは恥ずべきものであったとのパウロの言葉にも、耳をかたむけねばならないであろう。神を捨てて、人は何をつくり出したのか。今現実にわたしたちが身を置いている状況の中で−核兵器の脅威のもとで、戦争の悲惨のもとで、環境破壊、自然破壊の深刻さのもとで、競争社会のひずみのもとで、職場や学校や家庭におけるさまざまな人間疎外状況のもとで、世界的な差別や貧困のもとで、あるいはわたしたち現代人のおちいっているさまざまな病や苦難のもとで、この問いを真剣に問わねばならないのではないだろうか。
(2008.1.23 祈祷会)