ローマの信徒への手紙を読む(第64回)

64           永遠の命(6)
 罪が支払う報酬は死です。
しかし、神の賜物は、わたしたちの主イエスキリストによる永遠の命なのです。
(ローマの信徒への手紙6章23節)

聖書において罪とは、根本的には人が造り主である神を離れることを言う。つまり人がみずから創造の秩序に背き逆らうこと、自身が神の被造物であり、神の恵みと命によって生かされている存在であることを否定すること、それが罪である。

そして「罪の支払う報酬は死」(23)である。死は人が神を離れたことの結果として、みずから刈り取るべきものなのである。

聖書においては、死はたんに心臓が止まる、呼吸が止まるといった次元のものではない。それは最初の人間アダムに対して、神が死を宣告なさったいきさつを見ればあきらかである。み言葉に背いて禁じられていた木の実に手を伸ばしたアダムに、神が「塵にすぎないお前は塵に返る」(創世記3:19)と仰せになったとき、彼の心臓はまだ動いていたのである。

聖書においては、人が生きている、あるいは死んでいるということは、あくまでも神との関係において言われるべき事柄である。神とともにあるなら、肉体は死んでいても生きている、まことの命を生きているということがあり得る。反対に神から引き離されているなら、肉体は生きていても死の中にあるということがあり得るのである。

ローマの信徒への手紙を読むことの益のひとつは、この書をとおして人の命と死の真の意味を知ることができるということである。パウロは語る。「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です」(22)「しかし、神の賜物は、わたしたちの主イエス・キリストによる永遠の命なのです」(23)

人はあれかこれか、ふたつにひとつである。人が罪の奴隷であるときには、その途上の実りは恥ずべきものであり、行き着くところは死である。しかし人が神の奴隷とされているなら、その途上の実りは聖なる生活であり、行き着くところは永遠の命である。まさにふたつの道は対照的である。造り主を離れ、自分自身を神とする(創世記3:5)道からきびすをかえして神にたちかえるということ、あのよき創造の秩序の中にもう一度かえっていくということが、わたしたち人間にとってまさしくすべてなのである。イエス・キリストこそ死と命の分岐点である。その意味でまさしくあれか、これかである。

ただ、わたしたちはひとつのことを確かめておく必要がある。それは、パウロはここでローマ教会の信徒たちに、あなたがたの前には罪の奴隷としての道と神の奴隷となって生きる道があるが、死にいたらず命にいたるためには後者を選びなさいと命じているのではないということである。ローマの信徒たちは、今すでに古いアダムを後ろにしているのである。キリストのみ霊に生かされているのである。聖化の実りをあらわしつつ、永遠の命にいたる道を歩んでいるのである。

では、なぜ今命の中にあるのか。かつては罪を主人とし、死にいたる道を歩いていた者が、なぜ今主人を取り替え、イエス・キリストにある新しい人とされているのか。

それは、神の恵みが働いたからである。愛の神がおんみずから、聖徒らを命の道にたちかえらせてくださったからである。

23節において注目すべきことがある。パウロは死については(罪の)「報酬」という言葉を用いている。報酬とはみずからの働きの賃金である。みずからなしたことの見返りとして当然受け取るべき報いである。神を離れた罪の責任は人間自身にあるゆえに、その報いとしての死は罪人が当然支払うべきものであった。

しかし永遠の命については、パウロは「賜物」という言葉を用いる。すなわち神からの無償の、恵みの贈り物であると言うのである。罪ゆえに死ぬべく定められていたはずのわたしたちが、死にかえて命を得る者とされた。それはひたすらなる神の恵みである。人は神の恵みによって救いと命を得るのである。聖書の語るこの真理を心に刻みつけて生きること、それがわたしたちの信仰の歩みである。

                          (2008.1.30 祈祷会)