ローマの信徒への手紙を読む(第66回)

66           自由(2)

 しかし今は、わたしたちは、
自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。
その結果、文字に従う古い生き方ではなく、
霊に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。

(ローマの信徒への手紙7章6節)

 パウロは、(ちょうど結婚関係において妻が夫に束縛されているように)律法が人をがんじがらめに支配し、人の自由を奪っていると語っていた。しかし、一方で律法そのものは神の言葉であり、聖なるもの、よきものであるとも語っていた。なぜ、聖なる律法が人を束縛し、その自由を奪うことになるのか。
 それは、人が生まれながらに罪の中にあるためである。律法は聖なるもの、正しいものであるからこそ人の罪の姿をおのずから浮き彫りにせずにはおかない。人の罪を糾弾し、罪の報いとしての死(6:23)に定めずにはおかない。
 そして、人はおのが力で律法を守り行おうとすればするほど、その「信仰的」熱心のもとで、さらに多くの罪を増し加えるのである。それがファリサイ人、律法学者の道であり、ダマスコ途上で復活のキリストにお会いするまでのパウロの道であり、このローマの信徒への手紙を通して福音を再発見する以前の修道士マルティン・ルターの道だったのである。
 つまり、問題は律法自身にあるのではない。人間存在の奥底にまで根を張っている罪こそが人間を縛り、彼の自由を奪っているのである。この罪そのものが解決されねばならないのである。6節に言われる「文字に従う古い生き方」そのものが根底からくつがえされて、「霊に従う新しい生き方」が生み出されねばならないのである。

 そこで、結婚のたとえにかえりたい。パウロは結婚の関係はおたがいが生きている間だけ成り立つものであって、それは死によって終わりを迎える、妻は夫の死によって夫の支配と束縛から解放され、自由の身となると語っていた。
 わたしたちはすでに確かめた。わたしたちはキリストとともに、あの十字架の上で一度死んだ すなわち、第一のアダムにある古い罪の体を葬られた。それはキリストとともにわたしたちも、新しい命に復活するためであった。(6:3〜4)
 それゆえ4節に言われる。「あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです」
 わたしたちはもはや罪の奴隷ではない。夫の死によって自由の身となった妻のように、自由である。わたしたちの主人はもはや罪ではない。わたしたちがキリストとともに死んだことによって、罪との結婚関係はすでに破綻し、終わりを告げたのである。そして今わたしたちはキリストとともに新しい命によみがえらされ、キリストに結ばれ、キリストとの結婚関係にあるのである かつてわたしたちは罪の法則に支配されていた。それゆえにこそ聖なる律法を用いてかえって罪を増し加え、その罪を裁かれ、律法のもとで死に追いやられていた。それがすべてのアダムのすえの、生まれながらの姿であった。
 しかし今わたしたちはキリストとともに死んでよみがえり、キリストにある新しい命に生かされている。今わたしたちを支配しているのはキリストのみ霊による自由の法則である。わたしたちの命を生かす主の霊の働きは、わたしたちをこえた働きである。
 それゆえもはや律法はわたしたちを糾弾し、断罪し、死に導くことはない。今や律法はわたしたちを命に導く、またキリストにあやかって生きる生活へと導く道しるべである。これこそ律法本来の役割であったのである。わたしたちが古い人を脱ぎ、新しい人とされたゆえに、律法は本来の働きを取り戻すのである。
 そこにおいて律法は、死んだ言葉ではない。まさに生きて働く神の言葉である。聖霊の導きのもと、この命の言葉に従って生きるときに、人は真の自由を得るのである。真の命の喜びを知るのである。
 このようにわたしたちが律法の支配からときはなたれたのは、わたしたち自身の力によるところではなかった。神が働いてくださったのである。ひとり子を十字架につけたもうた恵みの神が、わたしたちを罪と死の支配から救い出してくださったのである。                   (2008.2.13 祈祷会)