ローマの信徒への手紙を読む(第67回)

67       律法と罪(1)

 わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることがわかりました。罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。(ローマの信徒への手紙7章10〜11節)

 昨今は昔にくらべて道徳の低下、あるいは倫理の乱れがいちじるしいとの声をしばしば耳にする。そしてそのようなときに決まって言われることは、もっと法を厳しくしなければならない、法を犯すふるまいへの罰則を強化しなければならないということである。あるいは、もっと道徳教育に力を入れなければならないということである。 しかし、法や道徳は万能ではない。ある程度までは効果を上げるということがあるかもしれないが、これらには限界がある。つまり人の外側をととのえるとしても、人の内側をつくりかえる力、人を根本から新しくする力を持たない。それゆえ、法を改正すればそれですむとは言えない部分があるのである。 救いや信仰の問題と向き合うためには、人間の内なる世界、魂の奥底にある問題へとおりていかねばならない。

内なる人間へと踏み込んでいかねばならない。聖書がわたしたちに示そうとする事柄は、その意味でむしろ法や道徳の限界において、法や道徳といったものが無力にされる場所でこそ問われ始めると言ってよいであろう。そして人間が真に人間としてのすこやかな姿を回復させられるためには、そこのところへとおりていかねばならないのである。

 パウロがこのローマの信徒への手紙7章で語り示しているのも、この人間の限界、もしくは人間が生まれながらにはらんでいる自己矛盾といったものであると言えよう。つまり聖なる、よき掟が与えられているのに、それを守り行うことができないという限界、自己矛盾である。

 先の1〜6節で、パウロは律法が人を支配し、がんじがらめに縛り、罪に追いやって死に至らせると語っていた。そこに当然起こってくるのは、人をそのように追い込んでいく律法とは悪いものなのか、律法それ自身が罪なのかとの問いである。

 パウロはその問いに明確に答える。律法は決して罪ではない(7)。むしろ聖なるもの、正しく、善いものである(12)。 しかしそれにもかかわらず、その命をもたらすはずの掟がわたしを死に導くとパウロは言う(10〜11)。そのように、命をもたらすはずの律法によって、逆に死に追いやられる。これこそが生まれながらの人間の宿している自己矛盾である。聖なる律法が与えられているのに、これを守り行うことができない。ここに人間の限界があらわにされているのである。

 7章においてパウロが「わたし」という語りかたをしていることは、まことに印象的である。これまではパウロは「わたしたち」という言いかたで語っていた。しかし、人間存在の限界と矛盾を正面から論じるこの章に来て、パウロはあきらかに語りかたを変えているのである。 それはこのこと、すなわちイエス・キリストの恵みによる罪の束縛からの解放ということが、彼自身の救いの経験、回心の経験ということと決して切り離して語り得るようなものではなかったゆえであろう。しかし、ここでの「わたし」はまた、パウロというひとりの人をこえたところで語られているのだということをも、よく理解しておきたい。ここでパウロが語っている事柄はすべての人間、すべてのアダムのすえにも妥当する事柄である。パウロはここで、全人類が「わたしはこのような者である」と語り得ることを、全人類を代表して語っているのである。つまりここでの「わたし」とはわたしたち自身のことでもあるのである。

 そのようにパウロは、この人間のもつ根本的な限界と自己矛盾、聖なる律法によってかえって罪を招き寄せ、死にいたらしめられるという矛盾を、この「わたし」の問題として、そして7節以下では律法のひとつの戒めを例に挙げることによって、より具体的に論じていく。それは十戒の最後の戒め、むさぼってはならないとの戒めであるが、そのことは次回見ていきたい。                (2008.2.20 祈祷会)