ローマの信徒への手紙を読む(第68回)

68      律法と罪(2)

では、どういうことになるのか。
律法は罪であろうか。決してそうではない。
しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。
たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、
わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。
ところが、罪は掟によって機会を得、
あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。
律法がなければ罪は死んでいるのです。
(ローマの信徒への手紙7章7、8節)

 聖なる律法によってかえって罪を招き寄せ、死にいたらしめられるとの人間の根本的な自己矛盾について、パウロは7節以下では律法のひとつの戒めを引きつつ、具体的に論じていく。その戒めとは十戒の最後の戒め、むさぼってはならないとの戒めである。 なぜあえて第十戒なのか。ひとつには当時のユダヤ教において、この戒めこそ十戒の中心、律法の核心であると考えられていたことがあったであろう。しかし、もともと第十戒が十の戒めの中でも実に比重の重い戒めであるということも事実なのである。

 第十戒は第一戒、わたしのほかに神があってはならないと命じられる戒めと対になっている、表裏一体の関係にあるとよく言われる。つまり第一戒と密接にかかわりあい、第一戒におとらず重要な戒めであるということである。

 むさぼりはどこから生まれるのか。あらゆるものを自分のものとしたい、あらゆる神の賜物を神のみ手から奪い取りたいというエゴイズムから生まれる。それゆえ、むさぼりの行き着くところは自分を神とし、あらゆるものを自分にひざまずかせるという自己神化である。コロサイ書3章5節はくしくも「貪欲は偶像礼拝にほかならない」と語っている。このように、むさぼりがついにまことの神をも押しのけて自分を神とするところまで行き着かずにはおかないという点で、第一戒と第十戒とは深くかかわりあっているのである。パウロはそのことを知り抜いたうえで、ここで第十戒を引いているのではないだろうか。

 ともかくパウロは、むさぼるなとの戒めをまだ知らなかったときには、わたしはむさぼりの罪を知らなかったと、しかしこの戒めを知ったときにわたしの中で眠っていた罪は生き返り、起き上がり、生きてわたしを支配するようになったと言うのである。そして律法を知ることによってわたしの中に宿されている根本的な矛盾に気づかされ、わたしがいかに罪に支配された悲惨な人間であるのかがはじめて自覚されたと言うのである。このように律法は人をその存在の根底から揺さぶり、人の行いと生活にある隠れた罪、眠っていた罪をあらわにして、人にみずからが罪の奴隷となっているという事実に気づかせるのである。

 律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろうとパウロは言う。しかしそれならば、パウロは罪を知らなかったときのほうが幸せであったのか。人は律法を知らず、罪を知らないほうが幸福であるのか。 確かに律法−神の言葉によって罪を知らされることは、わたしたちにとって苦しく、悩ましいことではある。罪の自覚は、確かに人を死にいたらせるほどに苦しめるものである。

 けれども、もし律法がなければ、わたしたちは罪の真相を知ることもなく、罪からの救いを求めることもなかったであろう。そしてそのとき、わたしたちは重い病にかかっていながら自覚症状のない人のように、ついには罪の報酬である永遠の死(6:23)へといたるほかはなかったであろう。

 パウロがここで論じていることは何か。それは、律法の働きとは、あるいは役割とは何かということである。人が救いを受けるにあたって、律法はどのような役割を演じるのかということである。 宗教改革者ジャン・カルヴァンは『キリスト教綱要』のはじめの部分で、人は神を知るときにこそ自身の真相を知ることができると述べている。律法−聖なる神の言葉は、暗い部屋を照らす光線のような働きをする。部屋が暗いときには、部屋の中がほこりにまみれていることはわからない。しかし太陽の光が射し込むとき、いかに多くのほこりがあるのかがわかる。

 そして、そのように罪の自覚をうながす働きをなす中で、すでに律法はひそかに人を救い主イエス・キリストのもとへと導く養育掛となっていることを見逃してはならない。律法は死にいたる病を明らかにし、そして福音はその病を癒すと言われているとおりである。                                (2008.2.27 祈祷会)