ローマの信徒への手紙を読む(第69回)

69           肉の人(1)

それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。
決してそうではない。
実は、罪がその正体を現すために、
善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。
(ローマの信徒への手紙7章13節
)

 イエス・キリストの福音とは罪の赦しの福音である。福音とは罪の赦しを告げるゆえによき知らせと呼ばれ、救いとは罪が赦されることである。 しかし、もしそうであるなら、福音がわかるためには罪とは何かということもわかっていなければならないであろう。罪がわからなければ、当然罪が赦されるということがどういうことかもわからないであろうからである。 そして、罪とその赦しを理解するためには、わたしたち人は神のもとに立たねばならない。神の真理のみ言葉に耳を傾けねばならない。そうするときにこそ、わたしたちは罪についても、罪からの救いについても正しく知ることができるのである。

ローマの信徒への手紙は人の罪について、また人が罪赦されて義とされることについて、深く深く掘り下げている書物である。この手紙を読む者は一方では、人の罪の深刻さを覚えずにはおれない。しかし同時に、人の罪をひとり子イエス・キリストを通して贖い、赦し、イエス・キリストを信じる信仰のみによって義とする神の恵みの奥深さをも鮮やかに知らされるのである。それゆえにこそこの手紙を通して、キリスト教会の歴史のなかで多くの人々が回心へと導かれ、またあらためて福音の真理に目を開かれる経験をなしてきたのである。アウグスチヌスもこの手紙から多くを学び、マルティン・ルターがこの手紙を読むことで福音を再発見したことが宗教改革のきっかけとなった。そしてわたしたちのひとりひとりにとっても、この手紙は罪と救いの真理を深く教え示してくれる書である。

わたしたちがこの手紙から教えられる重要なことのひとつは、罪の問題は人類普遍の問題だということである。罪の問題はわたし個人の問題にはとどまらないし、わたしと誰かとの比較の問題にとどまるものでもないのである。
   わたしたちは(多くの日本人は、と言ってもよいと思うが)聖書を通してはじめて自分を超えた絶対者と出会い、このお方のみ前に立たされる。それまでは他者との比較のなかで生きる生きかたを免れないのではなかっただろうか。わたしとこの人とはどちらが正しいか、といった生きかたから抜け出せずにいたのではなかっただろうか。
  そのことは日本人の宗教観ともかかわりあう事柄であると思われる。人格を持たない八百万(やおよろづ)の神々の宿るとされる土壌のなかでは、神々もまた比較のなかに置かれるからである。

 そこでは、聖書の語る義ということが、同時に罪ということも、なかなかわかってこないかもしれない。そこではかられるのは罪というよりも恥、もしくは世間体といったものではないだろうか。そしてここに日本人が聖書の神を信じる、また福音を理解するうえでのあるむずかしさも存在しているはずである。 ともあれまことの義、正しさということは人間を超えた絶対者、あらゆる人間を相対化する生けるまことの神のみ前に立つときにこそ、はじめて理解されてくるものなのである。さらに神の義、神の聖さの光に照らされるときに、その光のもとでこそ人間の罪と不義の真相が浮かび上がってくるのである。 それゆえ、罪と義の問題は比較の問題ではない。この人とわたしとどちらがよい人間か悪い人間か、どちらが正しいか正しくないかという問題ではない。わたしが神のみ前にひとり立って、神ご自身によって教え示されるべき問題なのである。

 わたしたちがローマの信徒への手紙を読むことを通して学び取るべきは、そのような姿勢である。パウロはこの手紙において聖なる、義なる神のもとで、率直に自分のすがたを見つめている。そのようなまなざしを持つことが、福音を知るにあたっては不可欠である。
 さらにパウロはそこで、罪の問題が第一のアダムにあって人類普遍の問題であることを示す。7章21節以下でパウロは罪を「法則」という言葉で言い表している。「法則」としか言いようがなかったのである。「法則」である以上、それはわたしひとりに妥当するものではない。人類一般に当てはまってくるものである。救いの問題はそういうことがわかっているところでこそ論じられねばならないのである。(2008.3.5 祈祷会)