ローマの信徒への手紙を読む(第71回)

71           人間のみじめさ(1)

 わたしは、自分のしていることがわかりません。
自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。
(ローマの信徒への手紙7章15節)

 15節はパウロという人の深く冷静な、醒めた自己観察から生じた、彼の赤裸々な叫びである。長いキリスト教会の歴史の中でこのパウロの叫びはいかに多くの人々の心を打ち、共鳴を与え、悔い改めを迫り、また慰めを与えてきたことであろうか。ここに真実の人間の叫びがあることを、よく聞き取りたい。
 パウロは、わたしは自分のしていることがわからないと言っている。これがイエス・キリストがいまさないところで言われるとすれば、まさしく絶望的な言葉である。いったい人は自分のしていることがわからないままで生きていくことができるだろうか。わたしたちはたいてい自分に自信を持つ人間となるように教育され、大人になっていくのではないだろうか。そして自分を信じて生きていくことこそが人生の成功のかぎであると信じて、自分でも努力を重ねるのではないだろうか。
 しかしパウロは、わたしたちのそのようないわば人生の確信を根元からくつがえすようなことを言うのである。わたしは自分のしていることがわからない。そして、自分は自分のしていることがほんとうにはわからないのだということに気づくことから、このような人間の根本的な無力とみじめさと絶望の中に立たされるところから、ほんとうの人生の歩みが始まるのだと言うのである。

 実はパウロは、イエス・キリストに出会うまでは、自分に自信をもって生きていた人であった。みずから切り開いていく人生の道にゆるぎない確信をもち、自分の手で何でもできると信じて疑わない人であった。
 彼はイエス・キリストに出会って回心をとげるまでは、ユダヤ教ファリサイ派の一員であった。パウロは、律法はよいものである、聖なる、正しいものであると繰り返し語る。そのとおり、律法は神の言葉であり、よきものである。
 そしてユダヤ教ファリサイ派は、このよき律法を自分自身のよき精進と行いによって守り抜くことによって自分を義とし、救いにいたることを目的とする教えであった。聖書ではこのような考え方を律法主義と呼ぶ。この律法主義は神に近づいていこうとしてかえって神から遠ざかっていく、間違った道であった。しかしパウロはそのことに気づかなかったのである。
 主イエスは福音書において、ファリサイ人や律法学者たちに見られるこの律法主義を厳しく非難しておられる。たとえばこのようにである。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがた偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。(略)ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる」(マタイ23:23〜24)

外側では、形式的には神の戒めを忠実に守る敬虔な、熱心な、落ち度のない信仰生活をいとなんでいるようで、実はそれらの信仰的なわざを自分を誇るために、人からほめられるために、自分を神の地位につけるために用いようとする人間のエゴイズムの根深さを、主イエスはこれらの人々の中に見ておられたのである。この宗教におけるエゴイズムの問題は、現代にいたるまで実に重大な問題をわたしたちに問いかけている。

 律法そのものはよきものである。しかし、そのよき律法を神の栄光のためではなく、自分の栄光のための手段として用い、また律法の真の精神である愛と正義と誠実とを見失って他者をさばくエゴイズムが、人間にはあるのである。神の事柄、救いの事柄に思いをはせつつ、神のみ顔が見えていないということがアダムのすえたる人間にはあるのである。ファリサイ派のひとりであった当時のパウロには、そのことがわからなかった。彼は自分こそ救いにいちばん近い人間だと信じて疑わなかったし、彼の周囲の人々も彼を尊敬と称賛の目で見ていたのである。その彼がイエス・キリストに出会って救われた今、わたしは自分のしていることがわからないと叫んでいるのである。わたしは望んでいるよきことは実行せず、かえって憎んでいることをする、神の栄光ではなく自分の栄光を求めていると呻いているのである。これは彼の、偽りなき叫びである。なぜなら彼は自分が教会の迫害者であったことを、今も鮮明に記憶しているからである。彼自身もまたイエス・キリストを十字架に追いやったひとりであることを知っているからである。                (2008.4.2 祈祷会)