ローマの信徒への手紙を読む(第72回)

72           人間のみじめさ(2)

もし、わたしが望まないことをしているとすれば、
それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
それで、善をなそうと思う自分には、
いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。
「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、
わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、
わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。
(ローマの信徒への手紙7章20〜23節)

 14節でパウロは、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されていると語っていた。ここでの「肉の人」とは金銭にひざまずいて生きている人でも、快楽に身をまかせている人でも、権力と支配欲のとりことなっている人でもない。キリスト者パウロである。わたしは肉の人である−これは世々の使徒たち、預言者たち、忠実な信仰の生活に生き抜いてきた人々が、繰り返し繰り返し口にしてきた告白なのである。
 カルヴァンが神認識と自己認識の不可分ということを言ったことにならうなら、神の救いの恵みを知ることと、これを受け取る人間の罪の自覚ということもまた不可分であると言えよう。
 さらにパウロは15節で語っていた。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」
 これは目覚めた人の言葉である。人間とは何者であるのかを理解した人、人間の真相に目を開かれた人が、確かにここにいる。ここに語られている自己分裂、自己矛盾の中にこそ、アダムにある全人類の罪のすがたが浮き彫りにされているのである。

  このような人間理解を与えられた者こそキリスト者であると言えるのではないだろうか。キリスト者とは聖書を知る者であり、聖書をとおして真理を知る者である。パウロもまた、聖書の光に照らされて、このような認識に到達したのである。
 信仰を持って生きるとは、ユートピアを生きるということではない。罪の現実から隔離された場所に生きるということではない。わたしたちは、この地上においては完全聖化はないのだということを知っている(それは死の時である−ウェストミンスター小教理問答37問)。すなわちわたしたちは、キリストの救いを喜び、神を崇め、信仰の益を確かに受け取りつつ、一方ではなおもこのパウロの叫びをパウロとともに叫び、彼の苦悩をおのが苦悩としつつ生きるのである。否むしろそうであるからこそ、わたしたちは終末の救いの完成を切実に待望する信仰に生きるのである。
 マルティン・ルターは言う。「古いアダムは墓場まで生き続ける。主イエスが仰せになっているように、神の国は近づいた。主イエスがわたしたちとともにおられるところ、すでに神の国は完成している。わたしたちは今すでに神の国の住人である。しかし、神の国とはまことに不思議な場所である。いかなる聖者も、そこではわれらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえと祈り求めずにはおれないからである。いかなる罪もおかさず、また感じない者は、キリスト者ではないのである」

 そしてパウロは20節以下で、この人間の真相についてさらに的確に、さらに深く、言葉を継いで語る。パウロは言う。わたしは善を望んでいるのに、現実には自分が決して欲していない悪を行っている。それは、もはやわたしが行っているのではなく、わたしの内に住み着いている罪が行っているのである−。
 つまり、わたしの中に他者である、わたしとは他人である罪が住んでいる、わたしの五体を住まいとして住み着いている、そしてわたしはこの罪によって部屋の壁に押し付けられ、それゆえわたしの家で行われていることをただ手をこまねいて見ているほかはないというのである。悪を行うのはわたしの他者なる罪である、この罪がわたしの願いと望みにさからって、悪を行うのだというのである。
 しかし、そのことはわたしを罪の責任から免除するわけではない。なぜなら、善を望むわたしと、悪を行うわたしとは別人ではないからである。現実にはわたしというひとりの人間がいるだけなのである。わたしというひとりの人間の中にふたりの、相反する人間があり、その矛盾と分裂に悩むわたしがある。つまりこの問題はあくまでもわたしの問題であって、いかなる他者にも、隣人にも転嫁することはできず、代わりに背負ってもらうことはできないのである。                         (2008.4.9 祈祷会)